山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

もの淋しい山ふところでの標準語

2009-10-17 23:35:55 | 方言
 山形国際ドキュメンタリー映画祭は15日で閉幕したが、その期間中に若干28歳の監督による山形発・長編ドキュメンタリー映画『湯の里ひじおり』も上映された。
「ひじおり」とは山形県最上郡大蔵村にある肘折温泉のことであり、県内各地から高齢者たちが湯治に訪れる温泉として名高いが、温泉の働き手の高齢化と子どもたちや若者の減少により温泉街としての経営も岐路に立たされている。
 ここの小中学校も村の学校統合により134年の歴史に幕を閉じたが、この映画は若者から高齢者までの卒業生たちが参集した閉校お別れ式典の模様から始まる。
 当然、子どもたちや数少ない若者たちも映画の各場面に登場する。
 しかし、彼らや旅館の若手の働き手からは方言らしき言葉がほとんど発せられず、きわめて流暢な標準語である。だから、都市部から隔絶した霊峰月山の山懐ながら彼らの言葉を聞く限りは首都圏にいるような錯覚すらしてしまう。
 古い歴史の学校が閉校になるのも、若者や子供たちが減少するのもむろん淋しいが、ほとんど都会と同じような言葉しか耳にできないのも非常に淋しく感じられた。
 映画に登場する若者たちには都会からのUターン組が多いということもあるが、山形県では僻地ほど「標準語教育」が盛んであったこともあずかっているようだ。
 都会に出る若人が言葉で苦労しないようにとの“親心”も感じられるが、これでは家族の内部と村落内に世代間の「言語の壁」を築いてきたようなものである。
 それだけではない。いかに村びとの生活が都会と同じように現代化しようとも、また頭を金髪にしようが、言葉が方言である限りは「地方」らしい雰囲気を味わえてほっとするものであるが、訛りすら消え失せた共通語を土地の人の口から聞かされては地方を訪れた感じがしなくなる。
 たしかに意味のわからない言葉ばかり聞かされては訪れる人も戸惑ってしまう。だが、百パーセント共通語である必要もない。
 外来者に土地特有の食べ物を提供するのと同じように、方言や訛りでの語りかけも大切な「もてなし」の一つではないか。

 ※ 写真は関連HPより・・・映画の一シーンではありません
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