奥羽の関ヶ原と称される長谷堂合戦を中心とした一連の戦闘では最上軍と上杉軍の双方及び民間人に2千人から3千人ほどの犠牲者が出たとされている。
直江兼続は「愛」と「義」の武将と称揚されているが、上杉軍に侵攻された山形市西部及び朝日町東部の農山村一帯では近年まで大人たちが悪ガキや泣く児を躾ける時は「カゲカヅ来ッゾー!」と嚇(おど)したという。
つまり「おとなしくしていないと恐ろしい上杉景勝の軍勢が来るぞう。」という意味であるが、直江兼続が率いる上杉軍も最上方の兵士たちに対してだけでなく、農民や子どもたちに対しても暴虐を働いたという先祖たちのなまなましい記憶が激しいトラウマとなって子孫の農民たちのDNAにまで引き継がれたということになろう。
また、戦死した多くの上杉軍の将兵(ふだんは農民だった者まで多数駆り出された)の遺体は置き去りにされたままであったに違いないが、戦後しばらくしてからも彼らの無念さが怨霊となって村の各所に出没し、怖れられたという。
むろん、西山形の農民たちにも上杉軍の兵士たちの多くが同じ家族のある人間であり農民であるのに無理矢理駆り出されて死んだのだから怨霊になるのも無理はないと同情心を抱く者も少なくなかったのであろう。
こうして、いつしか両軍の戦没者を共に慰霊しようという気運が高まり、写真のような慰霊碑が建立されるようになったのである。
◆写真 長谷堂城跡の北方に建てられた慰霊碑<主水塚> このあたりで剣豪として有名な上杉方の武将、上泉主水泰綱が討ち死にしたという。また背後の水田一帯では多くの上杉の将兵が深田の中で戦死体となった。左端の丘陵が長谷堂城跡
◆付記 山形国際ドキュメンタリー映画祭まであと1週間
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