らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

花札由来の言葉

2021-01-10 | 雑学

お正月の室内での遊びと言えば、昔はトランプゲームや百人一首、かるた取りなどがありました。
現在ではスマホやテレビゲームで遊ぶ人が多いのでしょうか?
私が子供の頃は父親が近所の人たちと花札に興じていたことを覚えています。
大人には正月休みの楽しみの一つだったようです。

この花札が由来となっている言葉が数語ありますが、ご存じでしょうか?
今日はその言葉を拾ってみました。

「ピカイチ」
先ず「ピカイチ」です。
花札では最初に7枚の札を配るのですが、このとき「20点札(光り物)」が1枚だけで、他が「かす札」だった場合、光り物が1枚ということで「ピカイチ」と呼ばれ、他の相手から40点ずつ同情点がもらえるというルールがあります。
これが転じて、多くの中で一番優れているものという意味で使われるようになったのが「ピカイチ」というこの言葉です。

・花札の光り物(20点札)5種類です。


「シカト」
相手を無視するときに使われる言葉に「シカト」があります。
この言葉は花札のモミジの札の鹿が後ろを向き知らん顔をしているように見えることから、物事に対してそっぽを向いたり無視することを「シカトする」と言うようになったようです。

・シカトの由来となった紅葉に鹿の札です。


「ボンクラ」
いつもぼんやりとして物事がわかってない人を指す言葉に「ボンクラ」がありますが、これも花札を始め、さまざまなギャンブルが行われていた昔の賭博場で生まれた言葉です。
「ボンクラ」とは漢字で書くと「盆暗」となります。
「盆」は「賭博場」のことを指し、「暗」は「負けてばかり」の様子を表す言葉です。
このことから、ギャンブルで負けてばかりの人を「ボンクラ」と呼ぶようになりました。

「ギャンブルで負けてばかりしている人は、いつもぼんやりして物事がわかってないから負ける」ということから「ボンクラ」が使われるようになったとされています。

「三下(さんした)」
「三下」とは、「この三下野郎が!」と使用されるように、相手を見下げて呼ぶ言葉ですが、もともとは、花札などで行う「カブ」というゲームの賭け事に由来してます。
カブは、二枚の花札をひいて、合計が九に近いほど強いという博打です。
二枚合計して「三」や「二」ではほとんど勝ち目がないので、「三」より下の数はまるで価値がありません。

このことから、相手を見下し、馬鹿にする言葉として「三下」という言葉が生まれたとされています。

他にもあるかも知れませんが、今回調べたのはこの4語です。
私は花札の遊び方を知りませんが、ご存じの方で、もし花札をされる場合は、飽くまで遊びでしてくださいね。
金銭や品物などを賭けて勝負を争うと賭博罪に当たりますので、くれぐれもご注意ください。


神社の御神体とは

2021-01-08 | 雑学

初詣に神社や寺院に行かれたことと思います。
寺院ではご本尊の仏像が仏殿の中央に安置されているのでご本尊に向かって手を合わせてお願い事をしますが、神社ではご本尊に相当する御神体がどこを見回しても見当たりません。
御神体は拝殿の奥の本殿に祀られているといわれていますが、一般の参拝者は勿論、宮司ですら滅多に見ることはないのだそうです。
宮司ですら見ることがない御神体(神様)に向かって、私たちは手を合わせて拝んでいるのですが、御神体とは一体どのようなものなのでしょうか?
調べてみました。

「御神体とは」
御神体とは神道で神が宿るとされる器、物体です。
御神体は「依り代」「御霊代」とも呼ばれており、それが礼拝の対象となっているのです。
ご神体として最も一般的に祀られているのは「鏡」です。
他にも「剣」、「勾玉」、「石」、「御幣(神前に供える布帛)」、「弓矢」など種類は様々で、「アワビの殻」や「サメの歯」がご神体と言う神社もあります。
時には神の姿を描いた絵画や彫刻がご神体とされているところもありますが、これは仏教の影響を受けて造られたものです。
その他、奈良県の大神神社の三輪山や和歌山県の熊野那智大社の那智の滝ように山や滝、木などの自然物をご神体としている場合もあります。
このように、元々はご神体と言えば自然物が主体でした。

「神道とは」
では神道とはどのような信仰なのでしょうか?
神道は日本民族の間に自然に生まれ育った、伝統的な神祇(じんぎ)信仰です。
従って、これに対する固有の呼称はなかったようですが、欽明天皇(在位539年~571年)の時に伝来した仏法に対比して、神道と表現することにより区別したようです。
神道が日本の文献上初めて出てくるのは、『日本書紀』の第三十一代用明天皇の条に、「天皇信仏法尊神道」(天皇は仏法を信じ、神道を尊びたもう)とあり、これがわが国の文献上での初出だそうです。

「天皇との関わり」
「古事記」「日本書紀」によれば、神武天皇の東征後、数代の天皇は天照大御神の神鏡を皇居の中に祀っていました。
つまり、皇居が神宮でした。
そして、第十代崇神天皇朝に初めて天照大御神を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り、皇居と神宮を分離させました。
さらに、『古事記』では同朝期に「天神地祇(てんしんちぎ)の社を定め奉る」と記されていて、そのことから天津神(あまつかみ)を祀る天社(あまつやしろ)と国津神(くにつかみ)を祀る国社(くにつやしろ)が定められたということです。

なお、天津神は高天原にいる神々、国津神は地に現れた神々の総称とされています。
ただし、高天原から天降ったスサノオやその子孫である大国主などは国津神とされています。


大脊美流れ

2021-01-06 | 趣味

正月に録り溜めたドラマ「浅見光彦シリーズ」の第24弾「クジラの哭く海」を観ました。
ドラマのあらすじは、捕鯨問題の取材で南紀・太地町を訪れた浅見光彦が「くじらの博物館」で不気味な展示物を目にします。
それは、漁師人形に銛が突き刺されているのですが、それは以前太地町で起こった殺人事件の被害者の姿そのものだったのです。
調査を開始した浅見は、小さな港町を揺るがしたもうひとつの事件、旧家の娘の心中事件との関連に注目し、ドラマが展開していきます。

このドラマの中で、「セミの子連れは夢にも見るな」とつぶやくシーンがあったのですが、意味が分からなかったので調べてみました。

「大背美流れ(おおせみながれ)」
背美(せみ)とは、鯨の「背美鯨(せみくじら)」のことでした。
この鯨は大きいものでは15メートル以上に達し、頭部は体調の3分の1を占める大きな鯨です。
太地町観光協会のHPに「大背美流れ(おおせみながれ)」の説明がありました。
それによると、明治11年(1878年)の年末、太地の鯨捕りたちがこの巨鯨漁に失敗して100名以上の被害者を出した大惨事があるのですが、これを「大背美流れ」と言うのだそうです。

・「大背美流れ」太地町観光協会HPより


「大背美流れ大惨事の概要」
明治11年12月24日早朝、太地の鯨方は小雨まじりで、強風による荒れ模様の海へ19隻の船団を組み、総勢184名で出漁しました。
この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという従業者たちの不安と切迫感が無理な出漁をさせたのです。

沖に出て準備を整え待っている船団に午後2時頃、山見から「鯨発見!」の合図があり全員が欣喜雀躍しました。
しかし、発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美(せみ)鯨でした。
このような巨鯨は当時の技術では仕留めるのは難しく、子連れのセミクジラは子供を守るため、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていました。
このため、この鯨を捕るか否かで激論した結果、「直ちに捕獲にかかるべし。」と断は下され、急いで燈明崎の前に網が張られました。

鯨は湾内の方に向ったため更に張り替えたところ母鯨がわずかに網にかかり、驚いた鯨はすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へと逃げ出しました。
船団も懸命に追い、その巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝10時についに仕留めることができたのです。

仕留めた時には船団は遥か沖に出ており、その上、食料と水は絶えていました。
精魂使い果たした男達は再び必死の力をふりしぼって獲物を持双船に繋ぎ帰路に着いたのですが、見上げるばかりの巨鯨のため力漕しても船は進むどころか逆に潮流に引かれて沖に向い、遂には黒潮の流れに入ってしまい、熊野の山は遠くなるばかりでした。

お互いに声を出して励まし合い渾身の力を込めて漕ぎ戻そうとしましたが、飢餓に陥った体には既にその力を失っていました。
このままでは助かる見込はなくなることから、一同緊急協議の結果、命懸けで仕留めた獲物を切り離すことにしたのです。
そして、それぞれの船を繋ぎ固め、再び必死の思いで漕ぎ帰ろうとしましたが、船は強風怒涛に巻き込まれ、遂に、漂う木の葉のように海中に沈みました。

記録によると、出港して7日目に九死に一生を得て伊豆七島の神津島に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名、餓死者12名、行方不明89名という未曾有の大惨事となったのです。

ドラマを観て、142年前にこのような大惨事があったことを初めて知りました。
昔のこととはいえ、犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 


おせち料理の「祝い肴三種」

2021-01-04 | 季節

新年あけましておめでとうございます。
今日から今年のブログをスタートします。
本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、今年最初のブログは「おせち料理」について調べました。

おせち料理は地域によって食材の種類が大きく違う場合があるようです。
しかし、おせちには「祝い肴三種」と呼ばれる縁起物が必ず含まれるのですが、この三種は関東と関西では違うようです。
関東では「数の子、黒豆、田作り」が「祝い肴三種」であり、
関西では「数の子、黒豆、たたきごぼう」なのです。

「祝い肴三種の意味」
・数の子
先ず、祝い肴三種の内の「数の子」ですが、数の子はニシンの卵巣を乾燥又は塩漬けにしたものです。
卵巣には数万の卵があって、数が多いことから子孫繁栄の縁起物とされています。
でも、ニシンの卵巣を何故「数の子」と言うのでしょうか?
それは、ニシンは「カド(東北地方で)」と呼ばれることから、「カドの子」が転訛して「数の子」になったと言われています。

・黒豆
次に黒豆には1年間、マメ(まじめ、丈夫)に働けますように、暮らせますようにとの意味が込められています。

三種の内、関東と関西で異なるのが、「田作り」と「たたきごぼう」です。
・田作り(関東)
関東では「祝い肴三種」に「田作り」が入ります。
田作りはカタクチイワシの稚魚を素干ししたものです。
嘗てイワシは田んぼの肥料として使われていたことから、豊作祈願の意味合いがあります。

・祝い肴三種です。(左から黒豆、数の子、田作り、たたきごぼう)


・たたきごぼう
一方、関西では「田作り」の代わりに「たたきごぼう」が入ります。
ゴボウは「地に根を張り、細く長く家族の幸が続きますように」と一家安泰祈願の縁起物とされています。
たたきごぼうは、細く切ったゴボウを叩いてゆで、甘酢で和えたり、ごま煮、醤油煮、ごま酢、クルミ和えなどに調理するものです。

関西の祝い肴三種が「田作り」ではなく、「たたきごぼう」になった背景には、室町時代から関西にあった料理だったことや、大阪の高山ごぼう、京都の八幡ごぼうなど、関西が優れたごぼうの産地だったことから、地元の収穫への感謝の心が込められていることなどがその理由と考えられています。

・「ごまめ」
関西では「祝い肴三種」には含まれていない「田作り」ですが、「おせち料理」には含まれています。
但し、その呼び名は「田作り」ではなく、「ごまめ」と呼ばれています。
江戸時代に、京都御所で年始の儀式用の肴として「ごまめ」が供されており、御所から広く庶民に伝わって浸透して現在もその呼び名が残っているのではないかと言われています。

「ごまめ」という名称の由来は、イワシを肥料にして田畑にまいたら五万俵ものお米が収穫でき大豊作になったことから「ごまめ(五万米)」と呼ばれるようになったそうです。
「ごまめ」も「田作り」と同様、田を作るときイワシを肥料にしたことからといわれており、 どちらも豊作を願って食べる縁起のよい一品として知られています。

この「祝い肴三種」と「お餅」をそろえれば、最低限のお正月のお祝いができるとされています。
逆に、他の料理や飾りがどれだけ豪華でも、「祝い肴三種」がそろっていない場合は、お正月をお祝いするお膳の体裁が整わないのだそうです。

おせち料理の内容物には地域によって違いがありますが、「祝い肴三種」はどの地域でも入っているのではないでしょうか?
今年の正月はコロナで不要不急の外出が自粛要請されていることから、「祝い肴三種」が並んだおせちを食べて、ご家族で静かに過ごされたことと存じます。

本年が皆様にとって幸多き一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。

 


あけましておめでとうございます

2021-01-01 | 季節

あけまして
  おめでとうございます


皆様には、お健やかに新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年は弊ブログにアクセスいただき有り難うございました
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
 令和3年 元旦




   

誠に勝手ながら、今日から3日までブログを休ませていただきます。