らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

大脊美流れ

2021-01-06 | 趣味

正月に録り溜めたドラマ「浅見光彦シリーズ」の第24弾「クジラの哭く海」を観ました。
ドラマのあらすじは、捕鯨問題の取材で南紀・太地町を訪れた浅見光彦が「くじらの博物館」で不気味な展示物を目にします。
それは、漁師人形に銛が突き刺されているのですが、それは以前太地町で起こった殺人事件の被害者の姿そのものだったのです。
調査を開始した浅見は、小さな港町を揺るがしたもうひとつの事件、旧家の娘の心中事件との関連に注目し、ドラマが展開していきます。

このドラマの中で、「セミの子連れは夢にも見るな」とつぶやくシーンがあったのですが、意味が分からなかったので調べてみました。

「大背美流れ(おおせみながれ)」
背美(せみ)とは、鯨の「背美鯨(せみくじら)」のことでした。
この鯨は大きいものでは15メートル以上に達し、頭部は体調の3分の1を占める大きな鯨です。
太地町観光協会のHPに「大背美流れ(おおせみながれ)」の説明がありました。
それによると、明治11年(1878年)の年末、太地の鯨捕りたちがこの巨鯨漁に失敗して100名以上の被害者を出した大惨事があるのですが、これを「大背美流れ」と言うのだそうです。

・「大背美流れ」太地町観光協会HPより


「大背美流れ大惨事の概要」
明治11年12月24日早朝、太地の鯨方は小雨まじりで、強風による荒れ模様の海へ19隻の船団を組み、総勢184名で出漁しました。
この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという従業者たちの不安と切迫感が無理な出漁をさせたのです。

沖に出て準備を整え待っている船団に午後2時頃、山見から「鯨発見!」の合図があり全員が欣喜雀躍しました。
しかし、発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美(せみ)鯨でした。
このような巨鯨は当時の技術では仕留めるのは難しく、子連れのセミクジラは子供を守るため、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていました。
このため、この鯨を捕るか否かで激論した結果、「直ちに捕獲にかかるべし。」と断は下され、急いで燈明崎の前に網が張られました。

鯨は湾内の方に向ったため更に張り替えたところ母鯨がわずかに網にかかり、驚いた鯨はすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へと逃げ出しました。
船団も懸命に追い、その巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝10時についに仕留めることができたのです。

仕留めた時には船団は遥か沖に出ており、その上、食料と水は絶えていました。
精魂使い果たした男達は再び必死の力をふりしぼって獲物を持双船に繋ぎ帰路に着いたのですが、見上げるばかりの巨鯨のため力漕しても船は進むどころか逆に潮流に引かれて沖に向い、遂には黒潮の流れに入ってしまい、熊野の山は遠くなるばかりでした。

お互いに声を出して励まし合い渾身の力を込めて漕ぎ戻そうとしましたが、飢餓に陥った体には既にその力を失っていました。
このままでは助かる見込はなくなることから、一同緊急協議の結果、命懸けで仕留めた獲物を切り離すことにしたのです。
そして、それぞれの船を繋ぎ固め、再び必死の思いで漕ぎ帰ろうとしましたが、船は強風怒涛に巻き込まれ、遂に、漂う木の葉のように海中に沈みました。

記録によると、出港して7日目に九死に一生を得て伊豆七島の神津島に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名、餓死者12名、行方不明89名という未曾有の大惨事となったのです。

ドラマを観て、142年前にこのような大惨事があったことを初めて知りました。
昔のこととはいえ、犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 


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2 コメント

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セミの子連れは夢にも見るな  (もののはじめのiina)
2021-01-06 09:03:50
「セミの子連れは夢にも見るな」のセミは、蝉でなく「背美鯨(せみくじら)」のことでしたか・・・。
子連れの巨体な親クジラは、子を守ろうとして必死に暴れまわり、情の上でもドデカいものですね。


錯視の階段は、階上に置いた三角コーンを逆から見ると階下になっていたなんて、強烈な視覚トリックです。
このアイデアは、2年ほど前のシンポジウムの「高さ反転立体」で見てました。一つの方向から見える立体物は無限らしいです。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3f47a67f16de4683ea3cc65fe9ab8b2d



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府に落ちない点が (hide-san)
2021-01-06 17:18:46
府に落ちない点が一つあります。
「餓死者12名」とありますが、
どうして捕らえたクジラを食べなかったのでしょうか?

食料としては180人くらい十分あった筈ですが・・・

食料とする以前になにか問題が起きていたのでしょうが・・・
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