らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

納豆の食べ方

2023-11-22 | 雑学

皆さん、「納豆」はお好きですか?
2013年に「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されて、世界的に和食への関心が高まるにつれて、納豆は健康的な食材として外国人の間でも食べ始める人が増えてきました。
しかし、そのような人はまだ一部であり、その香りや見た目、糸ひくネバネバ感などから、多くの外国人には受け入れ難いようです。
私たち日本人には健康効果のある発酵食品の一つとして、抵抗感なく食べている人が多いのではないでしょうか。
そこで、今日はその納豆について調べることにしました。

「納豆の起源」
まず、納豆の起源ですが、これには諸説あるようです。

1.その一つは飛鳥時代に聖徳太子が発見したとする説です。
600年頃、いまの滋賀県にある笑堂(わらどう)というところで、聖徳太子が自身の愛馬の餌として食べさせていた煮豆が余り、捨てるのも忍びないのでワラで包み木にぶら下げていたところ、糸を引く納豆になっていたという説です。

2.二つ目は源義家(八幡太郎義家)が発見し、全国に広めたとする説です。
平安時代、奥州(現在の岩手県)で起きた反乱を治めるために京都から派遣された源義家が、その道中で馬の背に載せた煮豆を詰めた稲ワラの俵を開けたところ、糸を引いた納豆を発見したという説。

3.他にも縄文時代に大陸から稲作と大豆が伝わったとする説です。
中国大陸から稲作が伝えられた縄文時代、同時に大豆も伝えられたことから偶然納豆が生まれたという説。
当時の住居は床にワラを敷いていたことから、煮こぼれた豆が自然に発酵したのが始まりとする説です。



「納豆の語源」
納豆の語源も諸説あるようです。
・その一つは前記「2」の源義家(八幡太郎義家)からとする説があります。
義家は朝廷の命により「前九年の役」(1051年~1062年)と「後三年の役」(1083年~1087年)で2度に渡って奥州(東北地方)の平定に赴いています。
当時の軍馬の飼料は煮豆で、それを藁で編んだ俵に入れて馬の腹にくくりつけて運んでいたのが、ある時、俵を開けてみたら、馬の体温で良い具合に温められて、煮豆が不気味にも糸を引いた「納豆」になっていました。
そして、それを恐る恐る食べてみると、意外と美味であったといいます。
義家に献上し晴れて「納豆」は兵糧食となましたが、この時、家来が義家に“納めた豆”から「納豆」と呼ばれるようになったとする説です。

・他には、寺の納所(台所)で作られたことに由来する説です。
肉食が禁じられていたお坊さんたちにとって、納豆は非常に重要なタンパク源でした。
納所で大豆を原料に作るから「納豆」になったとする説です。

・更に、煮豆を神棚に備えたところ、しめなわに付着していた納豆菌の働きで納豆になり、神に納めた豆から「納豆」になったとする説です。

「北大路魯山人の納豆の食べ方作法」
ところで、納豆の食べ方について美食家の北大路魯山人(1883〜1959年)は、著書のなかで次のように記しています。
「納豆を器に出して、それになにも加えないで、そのまま、二本の箸でよくねりまぜる(305回)。そうすると、納豆の糸が多くなる。出る糸のようなものがふえて来て、かたくて練りにくくなって来る。この糸を出せば出すほど納豆は美味くなるのであるから、不精をしないで、また手間を惜しまず、極力ねりかえすべきである(更に119回)」

そういえば以前、NHKの「ためしてガッテン」でも美味しい食べ方について説明していました。
私が記憶しているところでは、この番組でも、
・先ず「210回」かき混ぜます。
・次に薬味や調味料を入れて、更に「210回」かき混ぜます。
こうすることで、美味しく食べられると放送していました。

「400回」ほどかき混ぜるのは魯山人と同じです。
実際、放送の後、私もそのようにして食べましたが、抵抗なく食べられた記憶があります。
納豆が苦手な方は、一度お試しになってみては如何でしょうか?