日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
みんな
(このエントリーから続きます)
今日は金沢大学地域連携センターで開かれた奥村美菜子先生(ボン大学・日本語教育)による「CEFRとのつきあい方」というワークショップに行ってきました。
試験のwashback効果とか、「置き換える」のはめんどくさいという学生心理とか、わたくし個人への良いヒントになりました(これだけではこのブログの読者にはなんのことか分からないでしょうね。すみません)。ありがとうございます。
・・・
でも、CEFRを基本的に良いものと認めるとしても、「自分で考える」(自律学習)という目標は良いものと認めても、やっぱり「みんなで考える」(協同学習)というのには、わたしは今でもひっかかります。
「みんな」という言葉が使われる時、けっして本当の「みんな」がそこにいるわけではないからです。いつも必ずだれか、「みんな」からはじき出される人がいると思うのです。何らかの意味で「みんな」に馴染めない人たちが。馴染みたくとも馴染めない人たちが。
孤独の中で組み上げられ彫琢される言語能力というのは厳然としてあります。それはそれで認められなければならない。認められる場がなくなっては、懊悩しながらさまよう魂が増えるばかりです。
話は変わりますが、そういう孤独な場、精神が集中したとき心に聞こえるのが、たぶん、デリダが言っている現象学的声、ということだと思うんです・・・
そういうことならCEFR、ヨーロッパ共通参照枠は、通常の意味でのそれの「作者」、「著作権者」であるJohn Trim, Brian North, Daniel CosteそしてJoseph Sheilsがいくら自らの名前を本の表紙(↑)から消そうとも、厳然として彼らが具現するヨーロッパ思想の流れ、人の流れの中に位置づけられるもののはずです。
内容的にも上から下へモノを「教える」という教育モデルの否定というのがCEFRの根本思想をなしていますが、「作者」を消そうとするそのミブリ自体も現代ヨーロッパ思想史の大波の中の典型的なシグサなのですから。
(ヨーロッパ思想史の持ってきたカリスマ的ビッグ・ネームは、今は空位時代だし、ひょっとしたら水村美苗の言うようにもう金輪際生まれなくなったのかもしれません。でも強いて言うなら、自らの名前を消し去るトリムやノースやコストたちがそれにあたるかも、と思ってます)
・・・わたしがこのごろよく偉そうに言っている「精神的高みは横方向にもある」というフレーズは、トリムやノースやコストたちのこのミブリと軌を一にしていると思ってます。
「横方向に『も』」あると言っているわけで、わたしは、縦方向の精神的高みも、追求することが無価値だとは全然思わないです。
ただ縦方向の高み追求だけになってしまうと、非常に弊害が大きい上に、往々にして人は何が悪いのかまるで分からないというドツボにはまってしまうと思います。「自分は真面目に、縦方向に精進しているのに、なんでうまくいかないんだろう?」というわけです。
精神的高みを追いすぎて、楽器演奏者が度を超した練習で手を壊し、スポーツ選手が度を超した練習で腕を壊す・・・というようなのは、その分かりやすい例でしょう。
これがたぶん、今の「日本」の困ったところなのだと思ってます。
話が大げさでごめんなさい。年末だし、いろいろ考えることの多い年頃なので・・・
快い敵(その2)
(前のエントリーから続きます)
『坂の上の雲』でひとつエントリーを書いたら、次の日27日の日経にエマニュエル・トッドが書いていることとつながっているような気がしました。
インタビューの聞き手、編集委員の藤巻秀樹氏は「ロシアとの協調と核武装はいかにもフランス人らしい発想だ」と書いておられますが、核武装はともかくロシアとの協調の方は当然進めるべきことではないでしょうか。それも、急いで。
これだけ世界情勢が激変したのですから(トッドのインタビューの横に「核心」コラムがあって「冷戦の終結が小さくみえるほど、いまのグローバル社会の激変は歴史的だ」という米国家経済会議委員長という肩書の人の言葉が引用してあるのは、まあ日経の紙面構成のなせるわざでしょうが、印象的です)、トッドが:
「一般論ですが、島の領有争いなど大した問題とは思えない。大事なのは関係を良くしたいという意思です。」
とようなことを言っても、フランス人が何をほざくか、みたいな感じで接することなく、謹聴してはどうでしょう。
しかし、テレビの『坂の上の雲』では、なんか「武士」同士が正々堂々と戦って日本人もロシア人も恨みを残さず、という感じで「快く」終わるのかもしれませんが:
「ロシアは日露戦争の敗北を脳裏に刻み、日本は第2次世界大戦の最後にソ連が参戦したことを許していない」
というトッドの言葉の前半の重みは、それにふさわしい重さを感じながらかみしめたいところです。