日本人と音楽(その1)

 

日本は非常に西洋音楽の上向き傾向(このへん、ヘーゲル弁証法とかアドルノとかと関連付けて論じられればいいんですが、それにはもうちょっと勉強が要ります)に色濃く染まった国だと思いますが、「精神的高みは横方向にもある」し、今の時代の日本で求められているのは実はもっぱらそっちの方じゃないかと思うんです。

 

そういう西洋音楽絶対主義を相対化するような著作が最近二つ出ました。

ひとつは、渡辺裕『歌う国民』です。

これを見ると、今でいう「ワールドミュージック」みたいなものを西洋音楽と日本音楽の伝統の上に作ろうという発想は、日本でも非常に早くからあったことがわかりますね。それがなぜか西洋べったりになっていってしまうんですね・・・

国民創生機能とか歴史参加機能とかは、フランス革命期の歌唱の中に萌芽があり、文部省唱歌や、のちのうたごえ喫茶のロシア民謡に受け継がれていく、ということでしょうね。

西洋古典音楽の演奏単位である「オーケストラ」って、こんなこと言ったら怒る人も多いと思いますけど、軍隊の隠喩だと思います。同じ音楽的志向を持った人が一緒にやる、というのは弦楽四重奏とか標準編成のロックバンドとかのように4,5人が限界で、西洋古典音楽のフルオーケストラほどの大人数が一糸乱れずひとつの美学を追求する、というのは非常に不自然な話だと思ってます。

「卒業式の歌」。『あずまんが大王』終結部でも、歌われるのは『仰げば尊し』でしたね。

 

それにしても渡辺氏も書きにくそうですね。「われわれは音楽というと、ほとんど反射的に『芸術』の一ジャンルだと考えてしまいます」うんぬんとかいう書き方は、わたしが読もうとすると非常に抵抗がある書き方なんですけど、仕方がないんでしょうね。こういうのは、西洋の「芸術」音楽=「音楽」というのを刷り込まれた人間たちが読者の大半を占める、という認識からこう書かれていると思います。

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