ぎらぎら

 

(上は2010年12月4日、日経新聞のスポーツ面です。これでお金を儲けているわけではないし、こんな不鮮明な像を転用しようという向きもないと思います。でも問題がありましたら謝罪とともに即刻削除をおこないます)

以下、ちょっとムキになって書いてますから、かなり「クサイ」と思います。そういうの嫌な方はお読みにならないようお勧めします・・・

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ワールドカップの開催地が2018年はロシア、2022年はカタールと決まりました。(2回分いっぺんに決めるというのは、いつからこうなってるんでしょうか? こういうのは一回ずつ決めるんじゃなかったんでしょうか?)

順当だと思います。(カタールがアメリカに勝ったってのは痛快ですね)

気がかりなのは、日本での報道のされ方です。「日本が選ばれなかったのは、日本の努力が足りなかったからである」というのと「ロシアやカタールは、カネの力で勝ったのである」という二つの「思想」しかそこには見えてこないので。

日経12月4日号での報道はズバリ「W杯招致 財力決め手」となっていて、記事の中には:

「『結局、カネ次第?』とつぶやきたくなるが」

「目をぎらぎらとさせて招致に走った2つの国が」(これはわたしは『きらきら』の読み間違いかと目をこすってみましたが、やっぱり『ぎらぎら』でした)

というような表現が散見されます。

現場で取材された記者の方(この記事は吉田誠一という署名があります)は、それこそ「ぎらぎら」した、なにか日本的倫理感覚に合わないものを見せられて憤懣やるかたないという気持ちを感じられたように思われます。

でもここで日本の人たちが「ああ、世も末じゃ」と嘆くだけでいいわけはないです。

少なくともわたしは今の若い子たちに「ある程度世界で存在感をもった日本」を残していきたいし、

さらに今の若い子たちがその次の世代に「ある程度世界で存在感をもった日本」を残す努力をするような気概を持つようにしておきたいのです。

そのためには、若者たちに「外の世界は嫌なところだ」という主張が力を得ては、いま日本で一番憂慮されている例の

「内向き」傾向

を助長することになっちゃうじゃないですか。

これはまずいです。

 

招致合戦に、カネは大事だったかもしれませんが、それだけじゃないはず。

「FIFAという組織の旺盛な開拓精神」

「中東、旧東側のサッカーの振興、強化に寄与するとともに、その地域をよりグローバルにし、人々の価値観を劇的に変える大会になるだろう」

ということも書いてあるわけで、こっちの方をよく観察して積極的に、深く考えて行ったらいいのです。

日本が立派なワールドカップを開催することで「日本えらい」というメッセージしか発することができないのであれば、「みんな日本と同じようにやらなければならない」というメッセージしか発することができないのであれば、わたしは日本はワールドカップやオリンピックなどやるべきではないし、開催地に選ばれることもないと思います。

それより、リオデジャネイロを選んだ国際オリンピック委員会、ブラジル、ロシア、カタールを選んだFIFAの選択の意義をよく考えましょうよ。

これらの選択は明らかに世界の流れに乗ったものだし、またオリンピックやワールドカップが開催されることでその流れ自体がさらに確固としたものになるだろう、というそういう選択です。

また、そういう力になることによってワールドカップやオリンピック自体も、さらに世界的に支持されたものになっていく、そういう選択です。

ということなら、日本のすべきことというのは、「この潮流の意義をよく理解して、それに乗ること」のはずです。日本がひとりで世界的潮流を起こすことなどできはしないです。「乗る」しかないです。(といっても日本は卑下すること全然ないです。今でも十分日本は世界的に存在感もってます。自慢できる何の取り柄もなくて困っている国、人々の方が世界には多いんです。日本はそういう日本の財産を生かせばいいです)

また、残念ながら日本がいまワールドカップ開くことは、こういうものはセンシンコクの持ち回りのままにせよ、というメッセージ発信に加担するはめになるということもあります。

東欧圏やアラブ圏では未来永劫、ワールドカップなどやってはいけないでしょうか?

暑い国やでかすぎる国では未来永劫、ワールドカップなどやってはいけないでしょうか?

カタールは石油で潤っている国でそれを利用したはずですけど、そもそも自分の有利な点を生かそうということは、考えてはいけないんでしょうか? 要はそのあとどんな発展を遂げて「みせる」かということが大事じゃないかと思います。

カタールがどういう風に「国を変え」ようとしているのか、日本経済新聞にはそのあたりをよく取材して報道していただきたいものです。

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上にも述べた通り、写真は日経の紙面で、開催国決定のシーン。カタールとロシアの代表を両側にしたがえ、FIFAのプラッター会長がジュール・リメ杯もって立ってるところがあまりに象徴的に見えたので、こんな形でブログに載せさせていただきました。

老齢のプラッター会長(この人はスイス人で英仏独西伊語が喋れるらしいですね)が虎の子のジュール・リメ(もちろん、ワールドカップを作ったといっていいフランス人の名前です)杯を抱えてカタール代表とロシア代表に挟まれてるところは、なんか今の「ヨーロッパ」そのものを具現しているような感じがします。

つまりヨーロッパは、世界の人が集える「お座敷」を作って、そのお座敷の権利はおぽんぽんにしっかり入れといて、世界における存在感を維持するんです。

こういうお座敷権(ユネスコとか、世界博覧会協会とか、国際オリンピック委員会とか・・・)の多くはヨーロッパが既得権を持っているからです。

こういう既得権は、もちろん彼らはぜったい手放さないでしょう。

「世界の人が平等であってほしい」という、現代世界に生きるまっとうな人だったら誰でも正しいと考える価値の実現に少しでも近づくためには、日本のことしか考えてない日本より、ロシアやカタールがワールドカップやった方がいいはずです。

そしてその方向で動くことが、上に述べたようにワールドカップやオリンピックを通じてヨーロッパ自身が存在感を保つことに繋がるのですから、ヨーロッパは当然そのようにやるはずなのです。

日本はそういうヨーロッパが持ってるようなお座敷はもってないので(お座敷持っているものには持ってるものの難しさがありますから羨ましがるだけではダメだと思いますが)、それなりの立ち回り方を考えないといけないです。ヨーロッパと同じことをしていても仕方がない。

 

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最後に。

いろいろ勝手なこと申しましたが、別に私が日本にワールドカップやオリンピックぜったいやるなと言っているわけではないことはお分かりだと思います。世界に向かって普遍的なメッセージが出せるなら、日本がやったって全然かまわないと思います。

ただこれからの時代は「上向きの努力」だけじゃだめだ、とは思います。

「こんなに頑張ってるのに、なぜ日本は認められないのだ?」という不満の声に対しては、「それは努力の方向が間違ってるからだ」と言わなければならないです。

つまり、明治から高度成長期まで有効だったやり方、心の持ち方が、そのままの形では効力を発しえなくなった、と思うのです。

このこと自体、「普遍的メッセージ」ということと関わってくるのでこれはまた別にゆっくり主張して行かないといけませんが(というかずっと暗に主張し続けているのですが):

「精神的高みは、横方向にもある」

というのが今日本の人に必要な認識ではないかと思います。

 

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