日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
映画の将来について
いわゆるアート系の映画の苦戦はいよいよ深刻です。
今朝(12月29日)の日経に「ミニシアター閉館ラッシュ」という記事が載ってました。恵比寿ガーデンシネマも休館なんですね。あそこには、二人でいったのに・・・という思い出のある方も多いでしょう。
10年ほど前までミニシアター、アート系映画を支えるのは若者だった、としてキネマ旬報映画総合研究所長、掛尾良夫氏は:
「難解な映像作家や知らない国の映画を背伸びして見るのがかっこ良かった。そんなスノビズムは消滅した」
と述べています。
さて。
これ、ワールドミュージックの苦戦と同じことで:
「受けないんだから、売れないんだからしょうがないじゃないか」
では済ませられないのです。
だって、これは世界に対する関心の希薄化ということなので。まさに例の、憂慮されている「内向き」のことなので。
(滑稽なのは、日本人は内向きすぎる、なんとかしないと云々と言っている人の多くが、要するに日本経済のために外国を良く知り外国で働いてくれる人が出てほしいと願っているだけで、自分自身は外国に、とくに外国の文化に全く興味をもつ気がない、という気がすることですね。どうでしょう?)
それに「今の子は映画なんか見ないし」という認識は、日本には相当当てはまっても、そうでない国や地域の方が多いと思うのですよ。
いくら日本マンガが世界的に人気といっても、外国にでた日本人留学生が皆の中で日本マンガの話をするばかりでは、本人にその気が全くなくても自文化を誇っているだけの奴に見られてしまうでしょう。これではやっぱりダメではないですか。相手の文化に興味を持っていることが具体的に示せるのでないと。
外国語を教えている者として申しますが、映画というのは文化の異なる者がお話しできる最高の話題のネタなのです。
「○○見た?」「見た見た! 面白かった!」
と、偶然に、突然に(ここが大事)話題と、感動の共有ができちゃうのですから(文学も共通話題にはなりますが、世界の古今東西の文学というと範囲が広すぎて、文化の違う人同士では読書範囲がなかなか重ならないというきらいがあります)。
こういう偶然の話題共有ができるネタとして十分世界に行きわたっているのは、アメリカ娯楽映画でなければフランス娯楽映画なんですよね・・・(ここでもドイツ娯楽映画というのはない。これも大問題です・・・)。もっともアメリカ人は99%アメリカ映画しか見ていない、というか見せられていないのですが。
とにかくやせ我慢、ええかっこしいのスノビズム――これすなわち教養主義と言っていいと思いますが――は消滅したとして、それに代わる何かのモチベーションで映画は見続けてもらわないといけません。
日経のこの記事では若者層に「本物の良さ」を伝えるためのいろいろな模索例が紹介されていますが、わたしとしては:
かつてはわけわからなくてもカッコつけて見ていたわけだが、それじゃ「わけ分かる」ようにすればいいじゃないか
と思うのです。
たとえば大学とかで、ちょっと分かりにくい外国の(多くはフランスの、になるかなあ)映画の見方について、少し示唆を与える。「作り手」がどういうつもりで作っているかについてちょっと解説する(こういう話の流れになると「作者の死」なんてどこの世界の話だ、という気になってしまいますね)。
そしてそれを、なんらかの形で「勉強」にしてしまってはどうか。
つまり、たけしの平成教育委員会、みたいなノリでやってみる、ということです。今の若者は、ああいう形で物事を提示されるのに慣れているから、才人北野武はああいう形態を考え出したのだと思いますし。
昔は自らを差異化するために――おれは高尚な映画を見ている(少しは分かる。あんまり分かんないけど)、他の奴とは違うという自負をもつために――存在していた映画理解(「鑑賞」?)ノウハウを万民のものにするんです。
その大義は「真の異文化コミュニケーション樹立」のため、です。いくら英語やフランス語がカンペキにできたところで、しゃべることがビジネスのことばかり、では絶対だれとも友達になれないでしょう。そういうことです。
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