快い敵

 

 おとといはテレビでThis is itやってましたね。わたしも下手なマイケル踊りを踊りながら、この瞬間日本全国で何万人がテレビの前で珍妙な格好をしているだろうかと、ちらと考えてしまいました。

 さて、司馬遼太郎自身が「これは危険」というような意味のことを言っていた『坂の上の雲』、これも30分くらいだけですがテレビ版を銭湯で見てしまいました。

 司馬遼太郎の真意についてはわたしは見解が定まりませんが、日露戦争勝利のいきさつを日本人が反芻する最大の危険は「敵が快すぎる」ことにあるのではないかと思ってます。

 日本の軍人たちはまだ江戸時代の記憶、「武士道」そのものが生きていた時代の記憶がある人たちでした。そしてこの時代の海戦は西洋にも「騎士道」的なものが残っていた時代の海戦でした。だから敵はかなり、彼らが期待するように行動してくれました。その上、最終的に負けてくれたらいうことはない、最高の敵です。

 たとえば昔は、戦艦が沈没する際はその艦長は逃げずに溺死しなければならない、という「風習」がありましたが:

 「なお敵艦艦長○○は、艦と運命を共にした模様であります」

 「・・・そうか」

というような受け答えをするとき、日本軍人たちは心の中に非常に快さを感じていたと思うのです。

 こういうのは武士道と当時「世界標準」だった西洋的戦争ルールとに重なるところが多かったから可能だったので、今日多くの戦争において、また戦争以外のいろんな意味での「戦い」の場において、こういう「快さ」を期待してはならないでしょう。

 でも、そういう「快さ」を期待せず、それでもなんらかの形で矜持を守り、自分のため、全体のためを考えて知力体力を尽くして行動し、後世にさらなる改善の可能性を残していく、というようなことを、人は志向すべきと思うのです。というか、まともな人はなに人でもそうやっていると思います。

 わたしが三つ前のエントリーで「精神的高みは横方向にもある」のではと言っているひとつの意味は、そういうところにあります。

 今日これをうまくやるのはたぶん、上方向の精進と強運とがあれば取ることのできる(科学領域の)ノーベル賞より難しいことだと思ってます。自分のやっていることが間違ってないか常に批判精神をもって客観視していないといけませんし。

 それに報いもあんまりないですしね。報いもまたなにか個人的なレベルで作っておくしかないです。「これができたら満足しよう」みたいな。

 

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