日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
外相自ら
13日と14日、前原さんが日本の外相としてははじめてアルジェリアを訪問したんですね。
日本=アルジェリア両国の協力関係の強化を図るというのですが、問題の高速道路建設をめぐるトラブルを日本政府としても放っておけないということもあります。なにしろ日本企業群が一千億円とかの損失を被る危険があるわけで。
このゴタゴタも結局のところ、日本のコミュニケーション能力の弱さにひとつの原因があるように思います。アルジェリアが建設費支払いを拒否しているのは、道路の構造が契約通りではない、という主張をしているからですしね・・・
何度も言ってますけど、このプロジェクトは日本としても海外で受注した過去最大のものなんです。これがコケたら日本の大企業がいくつも危機に瀕するのです(だから外相があわてて自ら現地に赴いたんですが)。
なのに日本社会の無関心ぶりはあきれるばかりです。
面白くない話だろうということでメディアも報じないからでしょうか。それに対して海老蔵の喧嘩の話の方は面白いからみんなフォローするんですね。
イリュミナシオン
東京ミッドタウンでは今年もまた絢爛豪華なイルミネーションやってますね。
今年のスポンサーはドバイのエミレーツ航空だそうで。
・・・これ見てると、なんだか歌いたくなってきました。
ドバイの山奥で
んでんかたつむり
んごはまっかっか
あさん怒りんぼ
くは泣いちゃった
ぬきの立ち小便
所の戸が開かない
チンゲールが死んじゃった。
(これがわたしの知ってるバージョンですが、ほかにもいろいろあるらしい)
インドは今やIT大国。ドバイは・・・だいたいドバイに山奥なんかないか。
東京の真ん中でイリュミネーションに見とれる、っていうことは外側を見ない、ってことかもしれないな、と思ってしまう今日この頃。
ノーベル平和賞授与式
10日の劉暁波氏へのノーベル平和賞授与式に欠席した17カ国は:中国、ロシア、カザフスタン、チュニジア、サウジアラビア、パキスタン、イラク、イラン、ベトナム、アフガニスタン、ベネズエラ、エジプト、スーダン、キューバ、モロッコ、アルジェリア、 スリランカとなってます。
アフリカからはエジプト、モロッコ、チュニジア、そしてアルジェリアと、みごとに北アフリカの国々が並びました。おとといわたくしが扱った国々そのものです。かの国々のおかれた立場を如実に物語っています。
日本の方々には、どうかこれらの国々にもっと注目しほしいです。いま、世界政治のダイナミックな動きに鈍感であってはまずいです。
それには、たくさん人を送らなくては。送れなくては。
東京の方ばかり見る人でなく、現地の文化レベルから興味をもって関われる人を。
わたしはそのためにこそ、おとといの会みたいなところでアピールし続けているつもりです。
効果があらわれるのは何年も何十年も先のことで、われながら気の長い話ですが。
[追記] Jeune Afriqueのサイトによれば(まだ授賞式前の時点の記事ですが)、式に招待されているアフリカの国、オスロに大使館を置くアフリカの国がそもそも6カ国しかないんですね。
だからアフリカ大陸から出席した国は、たぶん南アフリカ共和国だけです。
[追追記] だからもちろん、アフリカの国がたくさんオスロに大使館を置いていれば、それらの国はほとんど欠席だったはず、ということです。念のため。
もう無理かなあ・・・
昨日、慶応大学で例のこの会、お話ししてまいりました。会自体は、時間がめちゃくちゃ伸びちゃいましたけど、ブランクールさん、古石さん、鳥羽さん、高瀬さん、小松さん、石川さん、中野さん、國枝さん、ジブチ、ルワンダ、マリ、モーリタニアの各大使など、皆さまのおかげで有意義な会になりました。でもわたしのお話はいまいちでした。申し訳ありません。
とお詫びを申し上げた上で言いますけど、こういう会でわたしが10分とか15分の枠でお話しするのって、やっぱりもう無理かなあと思います。要するに前提となる基礎認識が違いすぎて、わたしが自分の言いたいことだけ言ってもまず真意を理解してもらえそうもない。主催者としても他の人のお話と同じ路線でちょっと新知識、新情報を付け加えるようなお話を求めているところに、わたしが自前の認識と哲学を持ち込んでも困惑されるだけかなあ、と思うんです。
昨日の会だったら、わたしの話を聞かれた方は、やっぱりポイントが分からないな、と思われことと思います。たとえば:
「そりゃ、あなたは――妙な趣味だと思うけど――アルジェリアとかマグレブの音楽とか好きみたいだから、いろんな意味でフランス語が必要なんだと思うけど、わたし、そんなの興味ないし、関係ない。なんでそんな自分の趣味押しつけるような話をするんですか? あなたの話からしたら、マグレブ音楽に興味ない人はフランス語勉強するなんてしんどいことはしなくていいってことですか?」
と思われたかなあ、と思うんです。
わたしのまず問いたいのは「多くの日本の人がマグレブ音楽なんてわたしとは関係ないと思っているのは、(この偏見を維持することによってお金が儲けやすくなったり政治的に好都合だったりする人たちに)そう思わされているだけではないんですか?」ということ、になるかなあ、と思います。
この問いの真意を分かってもらうだけでも、たいへんな努力が要ります。ほとんど絶望的な戦いです・・・
でもこれをできるだけ多くの人に分かってもらわないと、たぶん日本が危ういし、世界もいい方向にはむかわないだろう、と思うのです。
だから少なくともわたしの存命中に勝つ見込みはない戦いだけど、やっておかないと後世に申し訳が立たないと思うので、やってるんです。
ブラジルとアフリカ
世界黒人芸術フェスティバル Le Festival mondial des arts negres (FESMAN)はセネガルのダカールで今日開幕ですね。12月31日までやってます。
音楽、踊り、演劇、造形芸術、モードなどなど、なんでもありますね。
私も行きたいんですけどね・・・
注目できるのは、今回が特にブラジルを主賓としたフェスティバルだというところです。
ブラジルは人口の50%がアフリカ系という国なんですね。1億9200万人の半分ですから、アフリカ系人口の数からすればナイジェリアに次いで世界2位なのです。
Jeune Afrique12月5-11日号によれば、アフリカ大陸の西の端ダカールとアメリカ大陸の東の端ブラジルのレシフェとを飛行機で結べば3時間半の距離なんだそうです。
アフリカのフランス語国のかなめセネガルが、ラテンアメリカ最大のアフリカ文化の国ブラジルと交流を促進する。
こういうのが21世紀だと思うんですよ。
だから日本はこういう動きをもっとちゃんと見とかないといけない、と思うんです。
きれいなもの
疲れて、心がざらざらになっていくとき、ひとは無性にきれいなものにのめりこむように思われます。
昨今では金沢大学もしゃれたことをやるようになっていて、図書館の外壁にこんなイリュミネーションを出現させました。
うん、きれいですね。
右上に青く150とみえるのは、大学の前身、加賀藩種痘所創設150周年記念を意味するのでしょう。
ぎらぎら
(上は2010年12月4日、日経新聞のスポーツ面です。これでお金を儲けているわけではないし、こんな不鮮明な像を転用しようという向きもないと思います。でも問題がありましたら謝罪とともに即刻削除をおこないます)
以下、ちょっとムキになって書いてますから、かなり「クサイ」と思います。そういうの嫌な方はお読みにならないようお勧めします・・・
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ワールドカップの開催地が2018年はロシア、2022年はカタールと決まりました。(2回分いっぺんに決めるというのは、いつからこうなってるんでしょうか? こういうのは一回ずつ決めるんじゃなかったんでしょうか?)
順当だと思います。(カタールがアメリカに勝ったってのは痛快ですね)
気がかりなのは、日本での報道のされ方です。「日本が選ばれなかったのは、日本の努力が足りなかったからである」というのと「ロシアやカタールは、カネの力で勝ったのである」という二つの「思想」しかそこには見えてこないので。
日経12月4日号での報道はズバリ「W杯招致 財力決め手」となっていて、記事の中には:
「『結局、カネ次第?』とつぶやきたくなるが」
「目をぎらぎらとさせて招致に走った2つの国が」(これはわたしは『きらきら』の読み間違いかと目をこすってみましたが、やっぱり『ぎらぎら』でした)
というような表現が散見されます。
現場で取材された記者の方(この記事は吉田誠一という署名があります)は、それこそ「ぎらぎら」した、なにか日本的倫理感覚に合わないものを見せられて憤懣やるかたないという気持ちを感じられたように思われます。
でもここで日本の人たちが「ああ、世も末じゃ」と嘆くだけでいいわけはないです。
少なくともわたしは今の若い子たちに「ある程度世界で存在感をもった日本」を残していきたいし、
さらに今の若い子たちがその次の世代に「ある程度世界で存在感をもった日本」を残す努力をするような気概を持つようにしておきたいのです。
そのためには、若者たちに「外の世界は嫌なところだ」という主張が力を得ては、いま日本で一番憂慮されている例の
「内向き」傾向
を助長することになっちゃうじゃないですか。
これはまずいです。
招致合戦に、カネは大事だったかもしれませんが、それだけじゃないはず。
「FIFAという組織の旺盛な開拓精神」
「中東、旧東側のサッカーの振興、強化に寄与するとともに、その地域をよりグローバルにし、人々の価値観を劇的に変える大会になるだろう」
ということも書いてあるわけで、こっちの方をよく観察して積極的に、深く考えて行ったらいいのです。
日本が立派なワールドカップを開催することで「日本えらい」というメッセージしか発することができないのであれば、「みんな日本と同じようにやらなければならない」というメッセージしか発することができないのであれば、わたしは日本はワールドカップやオリンピックなどやるべきではないし、開催地に選ばれることもないと思います。
それより、リオデジャネイロを選んだ国際オリンピック委員会、ブラジル、ロシア、カタールを選んだFIFAの選択の意義をよく考えましょうよ。
これらの選択は明らかに世界の流れに乗ったものだし、またオリンピックやワールドカップが開催されることでその流れ自体がさらに確固としたものになるだろう、というそういう選択です。
また、そういう力になることによってワールドカップやオリンピック自体も、さらに世界的に支持されたものになっていく、そういう選択です。
ということなら、日本のすべきことというのは、「この潮流の意義をよく理解して、それに乗ること」のはずです。日本がひとりで世界的潮流を起こすことなどできはしないです。「乗る」しかないです。(といっても日本は卑下すること全然ないです。今でも十分日本は世界的に存在感もってます。自慢できる何の取り柄もなくて困っている国、人々の方が世界には多いんです。日本はそういう日本の財産を生かせばいいです)
また、残念ながら日本がいまワールドカップ開くことは、こういうものはセンシンコクの持ち回りのままにせよ、というメッセージ発信に加担するはめになるということもあります。
東欧圏やアラブ圏では未来永劫、ワールドカップなどやってはいけないでしょうか?
暑い国やでかすぎる国では未来永劫、ワールドカップなどやってはいけないでしょうか?
カタールは石油で潤っている国でそれを利用したはずですけど、そもそも自分の有利な点を生かそうということは、考えてはいけないんでしょうか? 要はそのあとどんな発展を遂げて「みせる」かということが大事じゃないかと思います。
カタールがどういう風に「国を変え」ようとしているのか、日本経済新聞にはそのあたりをよく取材して報道していただきたいものです。
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上にも述べた通り、写真は日経の紙面で、開催国決定のシーン。カタールとロシアの代表を両側にしたがえ、FIFAのプラッター会長がジュール・リメ杯もって立ってるところがあまりに象徴的に見えたので、こんな形でブログに載せさせていただきました。
老齢のプラッター会長(この人はスイス人で英仏独西伊語が喋れるらしいですね)が虎の子のジュール・リメ(もちろん、ワールドカップを作ったといっていいフランス人の名前です)杯を抱えてカタール代表とロシア代表に挟まれてるところは、なんか今の「ヨーロッパ」そのものを具現しているような感じがします。
つまりヨーロッパは、世界の人が集える「お座敷」を作って、そのお座敷の権利はおぽんぽんにしっかり入れといて、世界における存在感を維持するんです。
こういうお座敷権(ユネスコとか、世界博覧会協会とか、国際オリンピック委員会とか・・・)の多くはヨーロッパが既得権を持っているからです。
こういう既得権は、もちろん彼らはぜったい手放さないでしょう。
「世界の人が平等であってほしい」という、現代世界に生きるまっとうな人だったら誰でも正しいと考える価値の実現に少しでも近づくためには、日本のことしか考えてない日本より、ロシアやカタールがワールドカップやった方がいいはずです。
そしてその方向で動くことが、上に述べたようにワールドカップやオリンピックを通じてヨーロッパ自身が存在感を保つことに繋がるのですから、ヨーロッパは当然そのようにやるはずなのです。
日本はそういうヨーロッパが持ってるようなお座敷はもってないので(お座敷持っているものには持ってるものの難しさがありますから羨ましがるだけではダメだと思いますが)、それなりの立ち回り方を考えないといけないです。ヨーロッパと同じことをしていても仕方がない。
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最後に。
いろいろ勝手なこと申しましたが、別に私が日本にワールドカップやオリンピックぜったいやるなと言っているわけではないことはお分かりだと思います。世界に向かって普遍的なメッセージが出せるなら、日本がやったって全然かまわないと思います。
ただこれからの時代は「上向きの努力」だけじゃだめだ、とは思います。
「こんなに頑張ってるのに、なぜ日本は認められないのだ?」という不満の声に対しては、「それは努力の方向が間違ってるからだ」と言わなければならないです。
つまり、明治から高度成長期まで有効だったやり方、心の持ち方が、そのままの形では効力を発しえなくなった、と思うのです。
このこと自体、「普遍的メッセージ」ということと関わってくるのでこれはまた別にゆっくり主張して行かないといけませんが(というかずっと暗に主張し続けているのですが):
「精神的高みは、横方向にもある」
というのが今日本の人に必要な認識ではないかと思います。
ぬいぐるみのきまり
『よつばと!』第10巻、出ました。
表紙でジュラルミンが、くまぬいぐるみのくせに、顔をこっちに向けています。
第9巻185ページでは、ジュラルミンはよつばたちと一緒に空を見上げてました。
これは、かなり怖い世界。
ぬいぐるみには、「人の見ているところで動いてはいけない」というきまりがあるはず・・・ 「読者が見てるところ」、はいいのかな。
アンコール遺跡整備公団インターンシップ報告会
これ、なんとか無事終えることができました。
学長先生が来てくださって、開会のお言葉をいただきました。
御来聴いただいた方々に心より感謝申し上げます。
いろいろ困難もあったけど、こうやって学生さんの報告を聞いていたら、ああ、やっぱり行っておいてよかった、と思いました。
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