谷中・多宝院、立原家墓所に全国からファン80余名、親族代表の立原肇裕氏に続いてお参りする。境内の桜が墓地を守るように咲く。ひっそりと静かに。
昭和14年3月29日歿 24歳(温恭院紫雲道範清信士)
その後 水月ホテル鴎外荘(森鴎外の旧居跡。舞姫執筆の部屋も残されている)に移り式典・講演会が行われた。
・式辞 ・挨拶
・ポエムコンサート 詩集「萱草に寄す」 から
朗読 佐岐えりぬ(詩人・故中村真一郎夫人)
演奏 中村恭子 (フルート奏者)
はじめてのものに またあるときは わかれる昼に のちのおもひに 虹とひとと ほか
フルートと詞がひびきあい心地よい詩のせかいが広がった。
・講演 「勤勉な立原道造」 詩人・大岡 信
今から50年前、1958年立原道造について書いた。立原が亡くなったころ16歳。彼の詩は、当時の自分にとって分かりにくい新古今の模倣だと思った。
やがて雑誌「四季」の復刻版、全83冊を手に入れる。 立原道造追悼號 昭和14年7月を境に「四季」が変化したことは明らか。立原は「四季」の中心であった。
それまで立原の多面的才能が活き活きと雑誌のなかに生きていることに気づかされた。 彼は四季の全体を支えていたのである。 津村信夫と立原が入り、華やかで明るくなっていた。
「風信子叢書の第一篇に(萱草に寄す)と名づけて…」にはじまる覚え書きから
「…僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなつて、たしかめられず心の底でかすかにうたふ奇蹟をねがふ。その時、この歌のしらべが語るもの、それが誰のものであらうとも、僕のあこがれる歌の秘密なのだ」
立原の音楽へのあこがれはソナチネとなり切なく恋を歌う。音楽をとらえようと詩を作ったと思う。
生と死の狭間、暁と夕べの間、20歳の淡々しい稀薄な
刹那的な中間者のせかい、自分でも分析しがたいような音楽的感情を持っていた。
※ 当て字が適当か悩む。 私の貧弱な語彙で、音声を文字に起こすこと。広い会場の後方、音量の問題など。他の方の感想でもあったが、語尾が聞き取れずもどかしかった。
大岡信先生に失礼がありましたら 心よりお詫び申しあげます
勤勉な… タイトルの勤勉を講演のなかに聞くことはなかった。想像力をふくらませ 勝手に 勤勉を多彩、多方面に置き換えてみる。
詩人・哲学者 串田孫一の文章のままに
「この詩人の内部には開花を待ち侘びる蕾が、いつも群れるようにあって、それが言葉を選んで咲き、色数の多いパステルを望んで絵となる」
・懇親会 献杯 道造の2歳年下の友人。
・会食
粟津則夫氏など著名人ほか ファン150名以上か
道すがら上野の山で爛漫の桜見物、宴のるつぼに眩惑する。 余情もかき消された。
「のりこえのりこえ生はいつも壁のような崖に出てしまふ ふりかへると白や紫の花が美しく溢れてゐるのだが僕はすべてを投げ出して辛うじて少しづつ前に進んでゐる 》光を奪へ!《 (後略)」
生田勉宛 昭和十三年十二月十三日長崎から (絶筆)
「不意に何ものかともわからない調べとなって… 心の底でかすかにうたう…」 とらえて放さない。
写真は 上野公園の桜