別所沼だより

詩人で建築家 立原道造の夢・ヒアシンスハウスと別所沼の四季。
     

隅田川

2006-11-21 | アートな時間

                      写真:蔵前橋   

  打って変わって本日快晴です。  江戸東京博物館の
   ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展 江戸の誘惑 を見ました。

  隅田川の畔をそぞろ歩き、 遊里の世界を覗いてきました。 観光バスがつぎつぎ到着、大にぎわいです。 江戸の情緒と美人の競演、 遊女に囲まれ 狂歌や能、謡いなどの見立絵が楽しかったです。

  三味線のさはりを誰かつけぬらん たまにあふ夜もつんとばつかり (紺屋安染)
        (喜多川歌麿  三味線を弾く美人図)  

  なめてみる あまいからいハ すいぞしる からもやまとも あれみ三聖  (七十三叟蜀山人)    
    (見立三酸図 鳥文斎栄之) (楊貴妃、花魁、小野小町) 

  こういう情趣にほどとおい  まったく似合わないと…  しきりにおもふ沼蛙 勉強になりましたとさ。


  さすが北斎の娘、葛飾応為オイの三曲合奏図。 三味線、琴、胡弓。 奏でるひと三様の身のこなし、指の動き、手元、鮮やかな着物の柄、 印象に残りました。(ぜひご覧いただきたく 画像を追加しました) 

 

 

  唐獅子図は、北斎が袱紗に描いたもの。  提灯絵の復元も面白い 虎や蛇の躍動感。 保存のため解体され、絵は平らにのばされていた。  元の絵が分からないまま、組み合わせに試行錯誤し、 立体に復元するまで6ヶ月かかったそうです。

                     

   ほかの作品紹介は こちら

   太鼓の音もなくひっそりした櫓をみあげ 九州の熱戦に思いを馳せました。  国技館の向かいが隅田川、 両国から一区間だけ水上バスに乗ります。

  蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋をくぐると 名にし負はばいざ言問はむ… 言問橋…  ものがたりも浮かんできます。 桜橋までたったの10分、 遙かな眺めを恣にして、ぜいたくな時を過ごしました。 ふわりふわりとカモメの波乗り、 ポンポン船がゆく。 高層ビルも、ありやなしやと走りよる。 

     流れあり桜紅葉をのせて去る        みつ子

  デッキに上がると西日がまぶしい。  春は花見、 秋は月見と、いつも愛されてきた隅田川に、 縁台、朝顔、柳下の納涼など 美人を重ねて進みました。 

 

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ヤツデの花

2006-11-20 | 自然や花など

 雨上がりの舗道を歩いた。日焼けしたドウダンツツジが燃えるようだ。 ぬれて鮮やかさを増している。 滴りの落ちるとき雲が走っていく。 切れぎれに淡い空色が戻ってきた。
 すると …地味な色がとつぜん耀きだす。

 ほの暗い樹の下にヤツデが花をつけている。見上げると小さな明かりがシャンデリア球のようである。 精緻な細工は職人技、細い針のようなフィラメントがモネの絵のなかで煙っている。 拡大写真

   八つ手咲け若き妻ある愉しさに    中村草田男

   八つ手散る楽譜の音符散るごとく   竹下しづの女 

 久しぶりに弦楽四重奏を聴きたくなる日、喪中のはがきを出しに行った。
 シューベルトのロザムンデはどうだろう
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画家の周り

2006-11-11 | 別所沼だより
 
 護岸工事はまだ終わらない。 5・6メートルもありそうな真新しい杭が重機より打ち込まれていく。 木の皮を剥いだ匂いと、湿った空気がハウスを包んでいた。 表通りを歩いてきたので40分もかかってしまった。

 ガラス戸と炎いろした明かりがなつかしい、あたたかさにほっとする。 
 秋時雨  煙る沼のあじわい。  すきな白秋がよぎる
   しみじみとふる、 さくさくと、 雨は林檎の香のごとく…  


ハウスガイド・ボランティア養成講座 第4回
  「沼の畔で額縁をつくって」 
    対談  太田素信(太田美術社長)
        坂本哲男(さいたま市文芸家協会理事・美術評論)

 額縁には、日頃お世話になっている。 既製品ばかりあわせているが、たいへん興味ある話。
   
 大正10年、日本の西洋絵画の隆盛期にここ別所に店を構えた。
手作りの額にこめる思い。 額はあくまで引き立て役  主張し過ぎもいけない、額が勝ってはならぬ。
 木訥な話ぶり、まじめなお人柄がにじむ。 誠実なしごとのプロは控えめだった。

 絵描きには ①風合いや色など細かいところまで注文をつけるひと ②大まかなラインだけであとはお任せ ③無関心 など、三通りあるそうだ。 
 絵をよく見せるかどうかの大問題に熱意がないなんて 考えられないこと。馬子にも衣装を実感している。作品の完成度9割 残り1割を額に任せるくらいがちょうどいい。 

 「岸田劉生が愛用した、「劉生縁」を完成させたのもこちらの店。 一世を風靡する「古代色額」(アンティーク風額縁)の元祖であり、他店では決して真似のできない額縁を作成し続けている。藤島武二 山下新太郎、曾宮一念、安井曾太郎、小山敬三、その他数多くの洋画家、巨匠達に愛される」(HPより)

 名画の第一の鑑賞者は額縁屋さんなのだ。納得するまで画家と話し合い、絵に惚れ込んで作る。「絵の空気を活かすこと」といわれた。 作品をたいせつにしている。

 かつて見た劉生展で、額をはじめて意識した。 それは全く絵の一部になっていたからだ。 真実をえぐるような作品に、色もデザインもどこから額でどこまでが絵なのかわからぬくらいに自然にマッチしていた。 これも太田さんの仕事だったのだろう。

 これから絵を見て額縁にも思いを馳せよう。 絵の周り、そのハーモニーも楽しみに。 ほかに林倭衛と大杉栄のエピソードなど心に残った。

 林は絵描きと同時に詩人だった 絵の中にさわやかな詩情を見る。豪放磊落、酒あっての林倭衛だが、その周りは画家はもちろんのこと、近所の人や裁判官まで、層は厚く広い交遊であった。分け隔てのない優しく、開けっぴろげな人柄のせいだろう。(随録 美術家物語 坂本哲男 近代文芸社)  
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遊蝶花

2006-11-09 | アートな時間

                             

  部屋の隅に遊蝶花の鉢が乾いていた。黒いほどの赤い花が揺れているのだった…  
   短編小説の花が気になってしかたがない。  遊蝶花 … どんな花だろう 見たことがない。 思い出せずに過ぎていた。

  斎藤豊作を調べるうちに 点描のなかに出てきた。 雪景色をバックに咲いているおなじみの花だった。  
  岡 鹿之助、 1951年 「遊蝶花」 岡はサルト県リュッシュ・ブランジュ村のヴェヌヴェルの古城と呼ばれる斎藤家に度々招かれて制作とあった。 1928年「村役場」はそのころ。

 ようやく豊作について、明らかになりつつある。 第2次世界大戦では外国人として辛酸をなめ投獄にもあう。 だいぶまえに個人的に調べたが何も資料がなかった。  ご家族は全く日本語が話せないそうだし、 叢書はありがたく思った。 足跡を知り、作品を見るのは何よりうれしい。 亡き家族に見せたい。 母と一緒に育ったTさんにもぜひ。 

  植えたばかりのパンジーが揺れる、 花言葉のように物思いは当分つづくのでしょう。

 

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夢のひきだし

2006-11-06 | アートな時間


 立ち寄った常設展で、なつかしい地番を目にした。 
 南埼玉郡大相模村西方(現 埼玉県越谷市)、大相模尋常小学校入学とある。 祖父も母も通った、私たちの母校でもある。
 大相模… よく似ているが大相撲ではない オオサガミ、 懐かしい響きはふるさとを 一気に近づけた。

 茅葺の母屋に、建て増したところは新座敷とよばれ、伯母たちのすまいだ。母屋と新座敷をつなぐ廊下に付随して、洋間があり、祖父母がつかっていた。
  前に青ドラセナが繁るエキゾチックな窓、そこを中座敷と呼び、よく遊び場にした。 この窓だけの部屋は掃き出しがあり、かがむと開口部から擬宝珠や苔むす石灯籠の、眺めは今も鮮明である。
 身を乗り出してほかの子にじゃれる、 この造りはこどもにとってたいへん都合よく、おもしろく、遊びは無限に広がった。

  -☆-

 昼間、中座敷を通るとだれもいない。 タンスの上置きに届いた手が戸棚をそっと開ける。 祖父に黙って小引出しをぬく。 罪悪感から気持ちも高ぶった。
 見つかれば叱られるかも知れないと思ったが、誘惑に勝てなかった。 ここには見慣れない、不思議なものがいっぱい詰まっている。
 最初は従妹といっしょに。 ひとりでたびたびは、秘密であった。

 ひきだしは夢の箱、 刻みたばこと何か知れないわくわくさせる匂いがあった。 虹色のグログランをつけた勲章、徽章。 ペンダントかブローチか。 リボンは幅広く厚地のあざやかな縞で、凹凸のある横うねがしなやかに光って目を奪われた。 きれいな、特別なものという気がして、ていねいに手の平に載せると、にっこり眺めた。
 キセルやパイプ、 金杯。 寛永通宝など穴のあいたのや、四角いお菓子のような一分銀など、古銭がザクザクあるような幻想もわく。

 なかに横文字の手紙や、西洋人の写真も入っていた。
 色白で透きとおった瞳  すこし傾けた細いからだに白っぽい服の異国の女性。 ただめずらしく眺めたが、 このころは何も知らなかったのである。
 後年、この美しい婦人がカミーユ・斎藤だと知った。 母方の遠縁にあたる画家、 斎藤豊作トヨサクがフランスの女流画家と結婚したことを聞いた。 パリから再び帰ることはなかった。 

 彼女「カミーユは1908年父親が死んだとき25歳。 日本を知ろうと決心しインドシナ人の女友達と船に乗る。しかし、1912年母が亡くなり、日本と日本人の生活に強く感銘を受けたが、2ヶ月で帰国。
 生涯不自由なく暮らせるほど多額な財産を相続、そのほとんどを売り払う。 渡仏した豊作とアカデミー・グランド・ショミエールで学んでいて知り合ったらしい」※

 与謝野鉄幹によれば
 「シャランソン嬢は(カミーユ・サランソン)殊に日本文学を愛して、日本語を巧みに語り、日本文をも立派に書く。源氏物語を湖月抄と首引クビッピキで讀んで其質問で予の友人を困らせた程の熱心家だ。  嬢は日本の文人と交ることを望んで居る。 日本の文人が嬢をして失望せしめないならば彼女は永久桜咲く國に留りたいと云ふ希望をさへ有モって居るのである。
   「巴里より」 (1912年12月10日) 与謝野鉄幹・晶子 

 祖父と豊作の交流に関心を持った。 伯父の代になり建て替えられ、この写真も豊作の手紙も土になったのだろう。 もったいないことをした。
 祖父しか知らないことを、もっと聞いておけば良かった。 返すがえすも残念だ。 祖父は豊作の実家 「味噌屋」と呼ばれる家に入り浸りだった。ことあるごとに駆けつけた、頼りにされていた と母から聞いた。  それらも断片的である。 

 消えた夢のかけらが  美術館に漂っている…
 点描主義を日本に伝えた斎藤豊作。 タッチの荒いつよい色彩の絵はあまり好まないが 今回展示された「にわか雨」に 日本と西洋が混じり合う。 思いがけず しっとりした作品だ。  
  新春の企画を楽しみにしよう。 

※資料より抜粋
  斎藤豊作とその家族を巡る人々について -20世紀の日本人画家のフランス滞在に関する未発表の調査- 
 ディミトリ・サルモン著 翻訳:長谷川てい 学術協力:大野芳材 埼玉県立近代美術館叢書1」
 常設展詳細は 埼玉県立近代美術館 へ  写真: 残れる光 1912年
    
           -☆-

 追記 2007.7.12
  最近いとこ達が集まった。 上のふたりはこのことを覚えていた。祖父から聞いているし写真も見ていた。 そして
「遊びながら古銭をたくさん缶に入れて、庭に埋めたのよ。でもどこかわからなくなっちゃった」
「おじいちゃんの引き出し 私も覗いた… なんか面白かったもの」など それぞれ、自分だけの秘密を持っていた。 わが同士!  なんとうれしいこと

 弟も、祖父が写真をみせ 「この人は親戚のひと、画家だよ、フランス人と結婚して、今はお城に住んでいる…」と話したという。
 「Y市の味噌屋さん(豊作の姪の婚家)へ お母さんと一緒に行ったなあ…」と 佇まいや、道筋など話す。背負われて行ったらしいが、確かなようだ。色まで付いていると自慢する。
 幼児の恐ろしい程の記憶。 彼は何処で仕入れるのか、小さい頃から何でもよく知っていてどれも鮮明だ、詳細に覚えているので、信用できると思った。 
 ボーッとした姉と、冴えた弟。 それは今も変わらない。
 

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