退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「大昔からの『ミゾジニー=女嫌い』と何とも残念な続作」について

2021-10-30 02:01:06 | Weblog
晴れ。久方ぶりの3連休初日。

西遊記(六)を読む。

「同じパターン」で物語が続く。
今回も悟空は三蔵法師から「捨てられて」。

「女たちだけの国」という設定が登場。
ただしなぜか「春情」を催すばかりなのがいかにも「男目線」か。

これも「ミソジニー=女嫌い」の「伝統」だと思っていいかも。
要は大昔から「男にとって女は『厄介な存在』」だったということ。

なぜ「厄介」なのは簡単で。
「お前らがいなければ『平穏』に過ごせるのに」ということだろう。

どこか「女子に『露出」を禁じるイスラム教」に似たところがあり。
もちろん女子からすれば「お前に見せるためにやってんじゃねぇ」というシンプル。

この「問題」はおそらく今も続いていて。
「お前の目線がおかしいだろ」という視点がないのが不思議だったり。

武正晴「嘘八百 京町ロワイヤル」(’20)を観る。

うーむ、こうなってしまうのかと思うことしきり。
前作と比べると「圧倒的につまらん」。

「ヒロイン」を広末涼子にしたのがそもそも「違う」。
彼女の魅力はこの役では発揮できないはず(もっと本当に「妖しく」ないと)。

山田裕貴を「良心」として描くのも微妙。
竜雷太と加藤雅也の「悪玉コンビ」も同様に。

森川葵の良さをもっと表に出す展開でないと。
吹越満も「不完全燃焼」で。

残念ながら本作のシナリオはとっちらかっていると思うのみ。
スプリット・スクリーンなど使う演出も同様に。

何とももったいない限り。
国広富之の「老けぶり」には驚いたけれど。

いったん「売れてしまう」とおそらくは「さまざまな制約」があるのだろう。
それにしても残念と言うのみ。
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