退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「泣かせること」について

2013-12-16 02:04:46 | Weblog
くもり。晴れ間も雨も。

昨日は仕事がいつもより早く長く。
ついつい寝てしまう。

小林信彦「新編 われわれはなぜ映画館にいるのか」を図書館で見つけて読む。

旧版は読んでいたのでいささか懐かしい内容。
植木等、芝山幹郎との対談とクリント・イーストウッドの新しい方の作品に関する内容もあり。

「極私的クロニクル」はどの著作かは忘れたけれど読んだはず。
新作「私の東京地図」も読まなければ。

この「お付き合い」はそろそろ三十年以上になり
小説・映画・笑いなどについて勝手ながら本当にあれこれ教えてもらっている。

かつて故景山民夫は「困ったオッサン」と呼んでいたけれど
今や「凄いオジイサン」となった著者にはくれぐれも長生きしていただきたい。

少なくともここまでいろんなことに「淫している」姿を見ると
自分などたかが知れているという「基準」があらためて明らかになって清々しい。

TVで「北のカナリアたち」(’12)を観る。

ジュリアン・デュヴィヴィエ「舞踏会の手帖」(’37)を
「かつての恋愛」でなく「島の分校での幸せ」にした設定。

原作が湊かなえということもあって
それぞれの「どうしようもない心」が結びついて「事件」は起きる。

「泣かせる作品」ではあるけれどあまりに「安易な不幸の集まり具合」。
ラストの「ダメ押し加減」にはさすがに醒めるのではないか。

「昔と同じシーン」も気になるところ。
「どうです、同じでしょ」と言われている気分になるのが残念。

刑事の石橋蓮司が「説明」をしすぎているのもどうも。
結局は吉永小百合が「許される」ために非常に「手間をかけた」印象。

観客を泣かせるための「経済学」という意味ではよく出来ている。
ただその「ウェルメイドぶり」は果たして好ましいのかどうか。

この種のものは北野武「あの夏、いちばん静かな海」(’91)の
「怒涛」のような「回想」の方が好ましいのだが如何。
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