晴れ。冷える。
「科学以前の心」読了。
あとがきの福岡伸一はまるで「ラブレター」を書いているよう。
もちろんそれだけの魅力はあるのだけれど。
中谷宇吉郎が科学そのものに疑いを抱く文章を書いていないところを
実に興味深く解釈しているので詳細は本書まで。
それが「客観的な評価」なのか「アバタもエクボ」なのかを
是非確かめていただきたいもの。
さて。
自分がある種の「美学」に基づいて日頃何らかの行動をしているとする。
その対象は仕事であろうと遊びであろうと構わない。
たまたま知り合った他人が「同種」だと思われる「気遣い」を見せると
それだけで好意を持つようにになるということがある。
もちろんそれはその人物のごく一部に過ぎず
「拡大解釈」した結果に過ぎない。
その人物は唐突に「いい人」ということになり
仮に彼もしくは彼女が「美学に反すること」をしたとしてもそれを「補う解釈」をする。
曰く「何か事情があったのではないか」
あるいは「あの人がそんなことをするはずがない」など。
ただし当然の事ながらその人物についてすべてを知ることは不可能で
単にその人物が「違う顔」を持っていたという「事実」を認めたくないだけだったり。
要は「贔屓(ひいき)の引き倒し」。
注意すべきはその相手が他人ならまだしも自分であったりすること。
それを「ありがちなこと」だと思えば人は謙虚にならざるをえないはずなのだが。
「仕組み」は単純極まりないとはいえ「実行」するのは案外難しい模様。
「崇高」と「卑小」がひとつの身体に同時に宿る「事実」はどこへ。
そこを直視しないために「英雄」や「天才」はその一部を圧倒的に「拡大解釈」され
「伝説」が生まれもてはやされることにもなるとして。
われわれは生まれつきどうにも「不自然なもの」が好きらしい。
通常それらはすべて「物語」と呼ばれて愛されているけれど。
「科学以前の心」読了。
あとがきの福岡伸一はまるで「ラブレター」を書いているよう。
もちろんそれだけの魅力はあるのだけれど。
中谷宇吉郎が科学そのものに疑いを抱く文章を書いていないところを
実に興味深く解釈しているので詳細は本書まで。
それが「客観的な評価」なのか「アバタもエクボ」なのかを
是非確かめていただきたいもの。
さて。
自分がある種の「美学」に基づいて日頃何らかの行動をしているとする。
その対象は仕事であろうと遊びであろうと構わない。
たまたま知り合った他人が「同種」だと思われる「気遣い」を見せると
それだけで好意を持つようにになるということがある。
もちろんそれはその人物のごく一部に過ぎず
「拡大解釈」した結果に過ぎない。
その人物は唐突に「いい人」ということになり
仮に彼もしくは彼女が「美学に反すること」をしたとしてもそれを「補う解釈」をする。
曰く「何か事情があったのではないか」
あるいは「あの人がそんなことをするはずがない」など。
ただし当然の事ながらその人物についてすべてを知ることは不可能で
単にその人物が「違う顔」を持っていたという「事実」を認めたくないだけだったり。
要は「贔屓(ひいき)の引き倒し」。
注意すべきはその相手が他人ならまだしも自分であったりすること。
それを「ありがちなこと」だと思えば人は謙虚にならざるをえないはずなのだが。
「仕組み」は単純極まりないとはいえ「実行」するのは案外難しい模様。
「崇高」と「卑小」がひとつの身体に同時に宿る「事実」はどこへ。
そこを直視しないために「英雄」や「天才」はその一部を圧倒的に「拡大解釈」され
「伝説」が生まれもてはやされることにもなるとして。
われわれは生まれつきどうにも「不自然なもの」が好きらしい。
通常それらはすべて「物語」と呼ばれて愛されているけれど。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます