退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『性』の捉え方の違いと『物語』に配慮が足りないシリーズ映画」について

2024-08-30 02:49:47 | Weblog
雨。昼に激しく夜に止む。

「チボー家の人々 一九一四夏 Ⅲ」読了。

クライマックスを異様に待たされている趣き。
第一次大戦はなかなか始まらず。

ジャックとジェンニーはようやく結ばれるものの。
前者にとってそれは「好ましくないもの」らしく。

アントワーヌもその態度は同じく。
アンヌとは無理矢理別れる格好。

例えば大島渚「愛のコリーダ」(’76)ではそれが「抵抗」であったりしたのに。
このあたりは「キリスト教であるかないか」が大きい模様。

「性」を「肉欲=罪」だと捉えるのか。
あるいは「徹底的な個人=好きに生きること」として捉えるのか。

もちろん後者が好ましく。
阿部定は「正しい」。

摩砂雪&鶴巻和哉「ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破」(’09)を観る。

「閉じられていた者たち」が「開いていく」お話。
ただし本作は「物語」としては微妙。

このシリーズには「ショット」がたくさんあることをあらためて。
全面白と黒の画面も何度か繰り返され。

綾波を救いたい一心のシンジが「奇跡」を起こす。
ゼーレの思惑はいまだ明らかにされず。

式波・アスカ・ラングレーと真希波・マリ・イラストリアスが登場。
いずれも「ヤンチャなキャラ」なのにふむふむ。

「局部を隠すシークエンス」が再び。
制作陣が「おっぱい星人」であることを確認した次第。

加持リョウジを登場させた意味がいささか不明。
「わかっている男子」が必要だったのか。

前作は映像の美しさのみで観られたけれど。
もう少し「物語」にも気を配ってもらいたいもの。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「フランスにも『空気の支配... | トップ | 「『戦争』がもたらすものの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事