退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「トリアージあるいは人材育成」について

2015-05-21 02:21:36 | Weblog
晴れ。夜に強風の後雷雨なども。

酒井順子「地震と独身」を読む。

3・11の大地震では「家族」が採り上げられるのが主だったが
「独身」はどうしていたのかという著者らしい視点。

あらためて被災者たちの体験を知ると涙腺が刺激される。
「理不尽な災害の力」を噛みしめるよりなく。

ただそうした中でまたそれぞれがそれぞれの思いで動き出す。
「戦争」同様あらゆる種類の「交通=人々のやりとり」があり。

「人生や思い出がかき消されてしまう」のは
津波および原発事故のもたらす最大の「苛酷さ」。

そのことをある程度「推察」できるくらいの「想像力」は持っておきたいもの。
少なくとも「戦争」もないのに「国土」を失ったのはこれが初めてなのだから。

たとえば「尖閣諸島」や「竹島」についてあれこれ思うことがある者が
それについて全く「鈍感」であるということは「明らかな矛盾」だろう。

今も続く「未曾有の災害」をどうにか「落ち着かせる道」へと位置づけられるかどうか。
われわれの「民度」がここでも試されている。

もっともその「現実」は「見たくないものを見ない」人々にとっては見えない模様。
何度でも繰り返すがその種の人々を「代表」にしてはいけない。

「自衛隊の海外派遣」以前にすべきことはいくらでもある。
どうでもいい「怨念」や「プライド」に振り回されるのはまっぴら御免。

さて。

「トリアージ」とは
「災害・事故現場で一時に大勢の負傷者が発生した際に重症度で治療の順番を決めること」。

「現場」では「誰が一番重症か」はおおむねわかるのだが
「現場を知らない人々」にはそれがわからない。

よくも悪くも「重症な人々」が各地にいるのだとすれば
「迅速な手当て」が必要なことは言うまでもなく。

「公共の福祉」というのはおそらくそれらをきちんとやっていくことで
その種の「まともな判断」ができる人々が持っているのが「見識」。

「世界の大小あるいは複雑さ」を決めるのが「人の器」だとして
結局は「人材育成」が「未来」を保障することになると思うのだけれど。
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