退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「蹂躙されること」について

2012-03-09 04:48:52 | Weblog
晴れ。夜に雨という予報ははずれる。

ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読む。

1492年のコロンブスの「アメリカ大陸発見」以降
当時のスペイン人がいかに地元のインディオたちを虐殺したかという内容。

老若男女かまわず手足を切り刻み火あぶりにもし
自らの欲望のためにあらゆる「非道」を尽くした模様。

「豊かな土地」で穏やかに暮らしていた中南米や南米のインディオたちは
「キリスト教徒の文明人」によって騙され侵されわずかな抵抗ののちにほぼ「全滅」した。

「簡潔な報告」ゆえか表現は「紋切型」になっている。
もっともそれ以上に言い尽くしがたい「事実」があったのだろう。

ゴヤの絵のタイトルのように「我が子を喰らう」悲劇まであったとのこと。
相手を「同じ人間」だと思わないとここまでのことができるものか。

その一方で一時隆盛を極めたスペインを「非難」するために
本書はのちの時代までその「材料」として使われた「歴史」も。

いずれも殺されたインディオたちにとっては「青天の霹靂」に過ぎず
単に「穏やかな暮らし」が一方的に奪われたのみで虚しいばかり。

堤未果「政府は必ず嘘をつく アメリカの『失われた十年』が私たちに警告すること」を途中まで読む。

「1%の人間が富の8割を持つ」アメリカでは
それに抗議する者たちを監視し抑圧する「システム」が出来上がっているとのこと。

かつての「権威」はもはや信用ならず
彼ら彼女らの発信する「情報」よりその「スポンサー」が誰であるかをチェックすべきだと。

すべては「広告会社」の描くシナリオに従って動き
いたずらに人々に「恐怖」を感じさせつつ自分たちに「都合のいい」法律を作り。

マスコミが「裏取り」もせずに垂れ流す「情報」は
常に「事実とは異なる」かたちで「現実」を作り上げる。

たとえばリビアのカダフィは「ただの独裁者」ではなく
むしろ「アフリカ随一の生活環境」を生み出し人々にも支持されていたという。

このところ起きているとされる「中東の春」も
実は全く関係ない理由で「動員された人々による映像」を「現実」にしたものだったり。

「湾岸戦争」における「油まみれの鳥」が「やらせ」だったのは事実だし
「映像技術」による「リアル」は素人には区別できないほどのものでもある。

いったいどこに「現実」はあるのか。

少なくとも明確なのは「特定の組織から金をもらっている人間」や
そこで「生計を立てている人間」は信用ならないということ。

ある種の「ドームの内部」で暮らすためにはそうした「嘘」が必要らしいので
それぞれに気を付けなければならない。

「確かな情報源」を確保するための「リテラシー=判別能力」がないと
「生きにくい世の中」になっていることを知ろう。

最低限「ダブルチェック」が出来ないとダメなので
自らあらためて「襟を正す」つもり。
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