退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ゾンビあるいは異端児であること」について

2017-09-25 01:55:42 | Weblog
晴れ。おだやか。

藤田直哉「新世紀ゾンビ論」を読む。

副題に「ゾンビとは、あなたであり、わたしである」。
その視点にふむふむと思って借りてきた次第。

さまざまな引用には「そう来たか」。
もっともゲームに関しては全く経験がないのでわからず。

論理に切れ味はないが読みやすくなるほどという感じ。
「可能性の中心」を思わせるほどのインパクトがないのはやや残念。

母親の体調不良のせいでなぜか上の妹の旦那とふたりで墓参り。

墓の周囲の草取りをして水をかけ花を供える。
普段はちょいと離れた場所で煙草など吸いつつ待っていることが多いのだけれど。

線香が折れやすいものだとあらためて。
その旦那が「実践倫理宏正会」に参加していることをあらためて知る。

話のネタとして「倫風」という雑誌を出してきたのでわかった次第。
朝早く起きて出かけている話は知っていたものの。

いちおう目は通した結果特に感想はなく。
「悩み多き人」はこういうところに「救い」を求めるのかと思っただけ。

何と申しましょうか。

「思い通りにならないことの不全感の大きさ」ってそんなに重要なのね。
「なるわけないじゃん」と思う自分が特殊なのか。

とりあえず「『救い』などないこと」がむしろ「救い」だと思ってしまうから
一族の「異端児」にならざるを得ず。

つまり。

「家族」が「お付き合い」になる次第。
どこでも「ありふれた光景」だとは思いつつ。

「無前提の前提」に対しては「へぇ」と思うのみ。
そこへの「疑い」を持たない人については「社交」をすることに。

だから「めんどくさい」。
昔から変わりのないことで。

そういえば母親は祖父(自分の父親)を持ち出して
「初孫=自分」には期待していたのになどとのたまうことも。

嗚呼。

むしろ「期待」に応えない道を歩いて久しいというのに
どうやら「理解」はできない模様。
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