退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『カタギ』ではない好ましい人々を描いたふたつの作品」について

2020-10-02 02:17:06 | Weblog
晴れ。このところだいぶ皮膚が薄くなった気がする。

伊藤昭久「チリ公列伝」を読む。

「チリ公」とは「チリ紙交換」のこと。
家庭から廃棄される古新聞古雑誌などを回収しトイレットペーパーなどと交換する仕事。

立場(タテバ)と呼ばれる集荷所兼問屋に集まるさまざまな人々の姿よ。
いわゆる「カタギ」ではいられない男たちの哀歓ぶりが何とも好ましく。

こういったかたちである種の人々を「包摂」できる場所があったのだということ。
ただしその仕事も今はもうなくなり。

「特定の時代の特定の場所の記録」として是非知っておきたいところ。
よくも悪くも「人間臭さ」がある場所だったことは間違いなく。

リリー・フランキーが好みそうなキャラクターがいっぱい。
「何事かをやらかしてしまうこと」に人はもっと寛大であっていいはず。

丸根賛太郎「狐の呉れた赤ん坊」(’45)を観る。

阪妻の「川越え人足ぶり」が実にいい感じ。
酒と喧嘩に明け暮れる男が捨て子を拾い「立派な父親」になるまでのお話。

「学」はなくとも「まともさ」を持つ人間がかつてはたくさんいたはず。
その「人情」にはちょいと泣ける。

そうした人物を諭す「長屋の大家」もいることを忘れずに。
今回はそれが質屋のオヤジで「質々始終苦」という「駄洒落」なども。

息子の善太が津川雅彦であるのも覚えておこう。
当時の芸名は「沢村マサヒコ」。

ちなみに阪妻の役名は「張り子の寅八」。
なるほど息子を思えば何事も「うなずく」よりないということらしい。
コメント
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