退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『歴史』に対する思いがなせる業あるいは好ましいサイレント映画ふたつ」について

2020-10-21 03:20:01 | Weblog
快晴。日本晴れ。

大岡昇平「境港攘夷始末」をどうにか読む。

ドトールでまた眠気に襲われ。
仕事帰りの地下鉄でも同様に。

鷗外の歴史小説「堺事件」に対する「批評」だと思ってよさそう。
それにしてもこの「調査の徹底ぶり」には驚くのみ。

「人はいかに自分に都合よく過去を語るのか」についてあらためて。
「歴史」はそういうもんじゃねえぞという著者の思いはおそらく自らが参加した戦争にあり。

「戦友たち」を徒や疎かに描くことはすまいという決意。
おそらくその気持ちがここにはあるはず。

二川文太郎「雄呂血」(’25)を観る。

「善人が悪人に、悪人が善人だとされるのが世の常」だという物語。
若き日の阪妻の立ち回りの凄さを再確認する。

結局「世間」に負ける主人公の姿にふむふむ。
それは「ある種のインテリの姿」に似ていなくもなく。

「自らの『正しさ』」に固執するとそうなる趣き。
コツコツ地道に「仕事」をすればいいだけなのに。

「正義への拘り」がむしろ「不幸の源」だという描写を忘れずに。
所詮「正義」など「時代」によって変わるもの。

清水宏「港の日本娘」(’33)を観る。

ドラ、ヘンリー、あるいはシェリダン燿子という名前がいかにも当時の横浜。
井上雪子、江川宇礼雄、沢蘭子もしくは斎藤達雄の「モボモガぶり」よ。

砂子の及川道子のみが「和風」。
いったんヤクザな道に足を踏み入れた者がカタギにはなれない物語。

「仲良しな女子ふたり」がひとりの男を取り合う話でもあり。
かの監督がこんなオシャレな作品を撮っていたのを初めて知る。

雰囲気はほぼハリウッドだもの。
「子ども」が得意な人だと思っていたもののさにあらず。

ちなみに以上の二作はいずれもサイレントなのでよろしく。
「雄呂血」の役者を全部演じきった講談師の女子が誰なのか気になる次第。

思いのほか「いい出来」なのに驚いた次第。
「七色の声の持ち主」だと言っていい。
コメント
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