「その人の性格が自動車の運転に表れる」というのはよく言われることですが、なかなか言い得ていると思います。
スピードを出しすぎる人、ブレーキが遅れる人(似たようで少し違う)、近くばかりを見て自分の進むべき道が見えていない人、逆に遠くばかり見て自分の周りが見えていない人、ハンドル操作ばかり意識して車体の動きが把握できていない人、自分さえ良ければ他の車の邪魔をしても構わない人、そして、アクセルが踏み込めない人…
これらの中で運転教習において一番困るのは、最後に挙げた「アクセルが踏み込めない人」です。他の例は直すこともできますし、助手席のブレーキを踏んだりハンドルを補助したり何とかしようもあるのですが、アクセルペダルだけは助手席では踏むことができませんので。
本人は「いや。踏んでますよ。」と言うのですが、一旦はペダルを踏んでも加速できないうちに緩めてしまう症状が出ていることが多いですね。
もちろん急アクセルは避けるべきですし、やはり加減というものは有るのですが、でも、毎回弱すぎるのでは練習になりません。しっかりアクセルを踏んだうえで、「今のアクセルは強すぎたかな」とか「アクセルばかりに気をとられてハンドル操作が雑だったな。」と反省しながら、次回はそれを直していくようにして初めて練習と言えるのです。
では、どうしてアクセルを踏み続けることができないのでしょうか。
そういう人は、やはり怖がりなのでしょう。もちろんスピードを出すことへの恐れも有りましょうが、(ここからは推測ですが)他人を信頼することも怖がっているように思います。だって、教習車には補助ブレーキが有るんだし、万一ぶつかりそうになれば指導員がブレーキを踏むはずなのに、それが信頼しきれないのでしょう。
と、ここまで書いて思いました。人生においてもブレーキ役を果たしてくれるパートナーの存在と、そのパートナーへの信頼が有ると、自分は遠慮なくアクセルが踏めるようになるのだな、と。
「性格」というより「人生観」みたいなものまで車の運転に表れるということでしょうか。
スピードを出しすぎる人、ブレーキが遅れる人(似たようで少し違う)、近くばかりを見て自分の進むべき道が見えていない人、逆に遠くばかり見て自分の周りが見えていない人、ハンドル操作ばかり意識して車体の動きが把握できていない人、自分さえ良ければ他の車の邪魔をしても構わない人、そして、アクセルが踏み込めない人…
これらの中で運転教習において一番困るのは、最後に挙げた「アクセルが踏み込めない人」です。他の例は直すこともできますし、助手席のブレーキを踏んだりハンドルを補助したり何とかしようもあるのですが、アクセルペダルだけは助手席では踏むことができませんので。
本人は「いや。踏んでますよ。」と言うのですが、一旦はペダルを踏んでも加速できないうちに緩めてしまう症状が出ていることが多いですね。
もちろん急アクセルは避けるべきですし、やはり加減というものは有るのですが、でも、毎回弱すぎるのでは練習になりません。しっかりアクセルを踏んだうえで、「今のアクセルは強すぎたかな」とか「アクセルばかりに気をとられてハンドル操作が雑だったな。」と反省しながら、次回はそれを直していくようにして初めて練習と言えるのです。
では、どうしてアクセルを踏み続けることができないのでしょうか。
そういう人は、やはり怖がりなのでしょう。もちろんスピードを出すことへの恐れも有りましょうが、(ここからは推測ですが)他人を信頼することも怖がっているように思います。だって、教習車には補助ブレーキが有るんだし、万一ぶつかりそうになれば指導員がブレーキを踏むはずなのに、それが信頼しきれないのでしょう。
と、ここまで書いて思いました。人生においてもブレーキ役を果たしてくれるパートナーの存在と、そのパートナーへの信頼が有ると、自分は遠慮なくアクセルが踏めるようになるのだな、と。
「性格」というより「人生観」みたいなものまで車の運転に表れるということでしょうか。