三橋雅子
<ブルータスならぬ、熊野よ、おまえもか?>
~台風被害は原発と同じ構図?
以上は2011年9月の台風12号など、集中豪雨による、南紀(新宮)の水害被害写真。写真の提供は、北部水源池問題連絡会のN氏。
前号の私の<台風被害報告>を読んで愕然。断続的な停電など何かと後遺症が残る中での文章とはいえ、そのずさんさもさることながら、あわせて掲載された、那智勝浦現地で撮影されたN氏の、すさまじい映像とのちぐはぐさに、穴に入りたい気分になった。普段余りに情報が氾濫する日常に辟易して、たまには電話を始め、あらゆる姦しい情報手段から隔離されるのも悪くない、などと我が身の安全にルンルンと過ごしていた結果が、あの、映像との乖離おびただしい、ノーテンキで且つ杜撰な文章になったことをお詫びしたい。
加えて我が家は半孤立集落。数箇所の遮断箇所は何とか自力で倒木を伐り土砂を除けて通れるようにしたが、重篤な亀裂箇所は人力ではままならず、重いゴミ収集車は台風以来入れないまま、ぎりぎりのカーブ道のガードレールが次第に、少しづつずり落ちていくようになった。コワ!ようやく今、本格的な道路復旧工事に入って、いよいよ通行は難しくなってしまった。迂回道路などあるはずもない。工事現場の下に車を置いておき、そこまで2キロ弱を歩き、現場付近は運よく通れることもあるが、めいっぱいに重機に占領されていると、脇の半崩れの山道をずっこけながら上り下り、自転車は到底無理、と言うほぼ缶詰状態の暮らし。暮れも押し詰まり、余すところ5日になって、やっと通行可能になる。
その間、この災害は果たしてどこまでが「未曾有の天災」によるものなのか、ほんとに人智で軽減されることはなかったのか?を考えざるを得なかった。
1.利水ダムの罪
熊野川にはいくつも発電ダムがある。昭和40年代(1960年安保以降の)日本の経済成長期に電力の需要増大に備えて、まさに「お国のために」産業発展の礎として水力発電がどんどん作られた。原発のさきがけか。熊野川流域は、地質、地形の条件も適所であったらしい。この時、補償金などのお金の動きが、ご他聞に漏れず、ダム建設を推進させた。
本宮町唯二の国道2本をはじめ、驚いたことに、わが庵に通じる狭い山道の舗装もすべてこの時の恩恵の遺産だという。おかげで我が家の近辺は、荷物が運べるようになったとあって、車でどんどん下に降りてしまった。道路通じて村さびれる、のみならず置土産に至る所、杉・檜を植えて。かくてダムは森を疲弊させた遠因になった。この「繁栄」のお蔭でダムに文句は言えない、と言う構図が根深く熊野川の底流にある。「ダムのお蔭」さまさまで、かつて雄姿を誇った川の、満々とした流れは見る影もなくなったが、水運を生業としていた船頭さんも廃業の保証はたっぷり手にしたし、マチは潤い人並みの道にも恵まれた。
私は熊野川の疲弊だけでも十分ダムの罪は声を大にすべきと思っていたが、加えて、あの尊大極まる放流予告。ものものしいサイレンに続く「これから毎秒〇〇トンの放流をしますから水流付近には近づかないよう・・・」と「通告する」居丈高なアナウンスは、まるで戦時中の空襲警報か、だれだれ閣下のお通りをを予告する、猛々しい軍靴の響きを連想してしまう。「そこのけそこのけ、ダム放流の御通りだ・・・」とでも言わんばかり。
水に浸かった天井までの張替えに肩を落としている店主に、たいへんでしたね、とそっと声をかける序に、あんな雨に加えてダムからまでどんどん放流されてはねえ・・・と思わず恨み言を漏らしても、一様にいや、あの雨ではしょうがない、どうしようもない天災ですよ、ときっぱり諦めている。確かに今回の雨量は桁外れであった。明治42年の大洪水、大斎原(おおゆのはら)にあった本宮大社が流された時以来のものだという。1953(昭和28)年の大雨も大きな災害をもたらしたが、これを知る人たちは今回は比較にならないものだという。だから今生きている人にとっては「開闢以来」なのだ。あの大雨ではどんな洪水も仕方あるまい、との諦めである。全く「人災」の余地はなかった、と。
確かに、日本一雨量の多い大台ケ原の年間雨量が4800ミリだというのに、9月4日の大台ケ原は2400ミリ以上、1日で半年分降ってしまったのだ。本宮でも1000ミリを越えた。大台ケ原の年間の5分の1を越える。確かにすさまじかった。
発電ダムはあくまでも利水ダムで、治水ダムではないから、安全性を優先した事前放流は義務付けられていない。大雨に備えて事前放流した後、予報が外れて台風がそれ、雨が降らなかったらダムは空っぽになり電力供給に支障をきたす。これでは利水ダムの意味がない、ということで、いつも、ぎりぎり満杯近くになって放流するから、雨とあいまって下流はたまったものではない。仮に事前放流が見込み違いで空っぽになり電力供給が不足したとしても、人命の安全を優先した結果の停電なら、納得づくで不便に耐えられる筈、と思うのが我々市民の発想だが、電力会社にとっては停電の不便を強いるより、自らの商品不足の損失の方が重大なのであろう。治水のために利水に支障きたすような事前の措置をするのは規定にないこと、法律違反だと、あくまで規定を盾にしている。ならば人命、住民の財産を守ることを優先するよう法律を変えるべきである。
これまでにも、本宮より下流の川の合流地点では、幾度となく「ダムの放流とあいまって」と明言された熾烈な水害を蒙ってきた。その都度、事前放流に関する規定の見直しなど、行政が真剣に取り組んでこなかった責任は十分にあるはず。とりわけ1995(平成7年)の河川法改正で「第1条目的」に「環境保全」が入れられたことは画期的なことだった筈だが、その好機に、「産業への通水」などだけでなく周辺住民の安全に関する配慮(事前放流に関する義務)をきっちり入れるべきではなかったのか?従来の災害と同じく今回に関しても、電力会社は規定に違反していることはないから責任は一切ない、と強気である。今回死者も出した新宮市では、議会は関電からの見舞金500万円とかを突き返す議決をした。今度こそ県ともども「利水ダムの横暴」に対する何らかの協議と対策をすることになるのだろうか。
2.森の荒廃
熊野川の氾濫もさることながら、いたるところ川の橋や道路に、流れてきた木の堆積、その白々とした枯れ木の無残な残骸が水路を阻んだ跡は無残だった。皆白々と、最近倒れたとは思えぬ枯れた廃木の態、もしくは最近まで立っていたと思しき木々も、その根の貧弱さから、もともと根の張らない杉・檜のひ弱さ、もろさに加えて、日照を求めて上へ上へといたずらに伸びようとした細い木々の惨めな姿は、手の入らない森の姿の映し絵に見える。
40年前、国の政策で杉・檜の植栽が奨励されたうえ、1本数万円から数十万円で売れるとあって、我先に植林に励み、儲けにあいまって、道路が付いたので、田畑や家の敷地にまで植えて山を降りていった。やがて外材が入ってくると、値段は暴落、伐って運び出す手間代が割に合わないとなって、山は放置された。結果、間伐されないままひょろひょろの木々がひたすら上に伸び、少しの風にも倒れて、それもまた放置されたまま、惨めな木々の墓場の態をなしている。荒れた山はところどころ禿ちょろけて、風化した砂山のように、一足踏み込めば、ザザーッと崩れ落ちたりする。
我が家の一番奥の水源も然り。一番良質の水だったが放棄せざるを得なかった。森の荒れようは、今始まったことではないことは以前から体感していたが、それもこの地へ住み着いてから、という僅か10年の歳月の間にも刻々と、恐らく加速されて、というのが実感できる。杉・檜の成長が止まるどころか、まだまだ先がとんがっていて、年々眼に見えて伸び、日照時間が年毎に短くなっていく心細さも、半百姓としては切実である。しかしこちらも先の知れている山姥ゆえ、森と命運を共にするもよしか、という気にもなりかけていた。そして老いたりといえども、この壮大な奥深い森、和歌山に入ったとたん、山の様相が一変して、その深さ大きさに圧倒されるといわれる、独特の山の魅力は、一朝一夕に衰えを見せるものではない。しかし内部は深く病巣に侵蝕されていて、いつ病んだ部分が表面化されてもおかしくないのが現実だとしたら・・・?往年の美貌を、一見辛うじて維持している美女が、内部は癌があちこち転移してぼろぼろの、もはや手の施しようが無い命運!にも似た現象かしら?などと悲しい連想が走る。
この、森の荒廃を早めたのも、ダム―道路―森の放棄・・・という経路によるところが大きいとしたら・・・つまりはダムも根っこでは、所詮お金に操られた原発と同じ構図に過ぎなかった、と今更ながら思い知る。ただ負の遺産が原発とは桁違いに小さいこと、そして何より反原発への力の片棒になり得る、と言うことがせめてもの慰めだろうか。
もろもろを沈めて浅き冬の川