恐ろしい青信号
神崎 敏則
今から45年ほど前のことだ。小学校1年の春休み、生まれて初めて長崎市に連れて行ってもらった。母と姉二人と妹の5人で、長崎市内に暮らしている遠い(?)親せきのお宅に1、2泊しただろうか。長崎市内のアーケードの人の多さ、お店がひしめくように並んでいる様に圧倒された記憶はあるが、何のために連れて行かれたのかまったく覚えていない。買い物をしたかどうかさえ覚えていない。そんなあやふやな記憶の中でも鮮明に覚えていることがある。
長崎港から西へ約100km離れた五島列島の福江港から定期船に乗り、約4時間かけて長崎港の大波止で下船した。港のターミナルを通って、2、3分も歩かないうちに大きな交差点に出くわした。目の前を左右に路面電車が走り、そのレールの手前側と向こう側にそれぞれ3車線ずつ車道が走っている。大波止からそのまま真直ぐその交差点を直進すれば、右手に県庁舎があり、さらに直進すれば長崎で一番大きいアーケードのある浜町(はまのまち)にたどり着く。こちらの直進する道路の車線は片側3車線と2車線だった。
この交差点に着いた瞬間に、怖気づいてしまった。車が血相を変えてビュンビュンと右に左に走っている。今から思えば法定速度以内のスピードなのだろうが、五島列島の車とはまるで雰囲気が違っていた。島の車は、信号付近に子どもがいると、なんとなくこちらを注目してくれていたのだ。そもそも赤信号で待っている間に車が1台か2台程度しか通らない。車の立場から言えば、青信号を通過するとき交差点で待つ子どもに気配りする。運転手と目が合うことも珍しくはない。しかし、長崎の車は違っていた。次から次に目の前を車が右から左に走り抜け、その向こう側を電車が走り、さらにその向こう側を車が左から右に駆け抜けていく。どの車も信号待ちしている子どもに、いっぺんたりとも注目することはない。どこかのゴールを目指して競い合うかのようにして走っていく。
口を半開きにして、腰が引けたまま信号が青に変わるのを待っていると、ようやく進行方向が青に変わった。すぐさま姉二人はほかの歩行者とともに横断歩道を渡り始めた。すると信じられない光景が目に飛び込んできた。姉たちが横断歩道を歩いているそのさ中に車が次から次に走り出したのだ。姉たちはまだ横断歩道の真ん中ぐらいなのに、僕の前の車線を右から左に次から次に駆け抜けていた。長崎はとんでもないところだった。
横断歩道を渡るときは、たとえ青信号であっても右手を挙げて右を見て、左を見て、もう一度右を見て、車が通らないことを確認してから渡る、と小学校で教えられていた。なのに長崎では、歩行者側の信号が青であっても、車が走っている間をすり抜けるようにして歩行者が急いで渡っていかなければならないことになっていた。腰が引けるのを通り越して後ずさりし始めた。すると青信号が点滅し始めた。横にいた親せきのおばさんが僕の手をギュッと握って「ほら、渡るとよ」と僕に声をかけて駆け出すように渡ろうとする。僕はありったけの力を込めて渡るまいと後ろに下がろうとした。一瞬、右折しようとする車の運転手と目があった。怒りがこもった目つきでこちらをにらみつけている。その眼は「渡るのか渡らないのか、はっきりしろ!」とどやしついていた。
この時母はどうしていたのだろうか。記憶にないがおそらく片手で妹の手を引き、もう片方の手は五島から持ってきた荷物を抱えていたのだろう。ともかく母と妹はまだその横断歩道は渡っていなかったと思う。
とんでもないほどに怖い青信号を何とか渡らずにすんで、安心しているのもつかの間。また信号が青に変わった。その途端におばさんが僕の手をギュッとつかみ、ぐんぐん引っ張っていく。今度はおばさんの勢いが違っていた。必死で渡るまいとからだをくの字に曲げて抵抗しても、片手をつかまれて引きずられるように運ばれていった。ちょうど首輪についたリードを引っ張って、嫌がる犬をひきずって散歩させているような光景に似ているだろうか。いやいや見た目はそうであっても、気持ちはそんな安直なものではない。地獄のふたがあいているのに、その上のロープを渡らされているような気分だったのだ。車が走っている間をすり抜けて駆け足で渡るなんて、いつ車に轢かれて死んでもおかしくないくらいに怖いことだった。
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20歳代で運転免許を取得し、いまだに車を購入したことはないが、運転は嫌いではない。運転マナーを良くしたい思いはあるが、スピードの出しすぎを同乗者に指摘されることはたびたびだ。時間と追いかけっこしているような生活スタイルがまとわりついてしまい、なんでも早くてきぱきと片付けなくてはならないような強迫観念に縛られていた。実際には期限が過ぎてからあわてて原稿を書きだすことの方が多いのだが、強迫観念に縛られていることは間違いない。そんな気負いが運転に現れているような気もする。今は自分自身を振り返る時間を与えてもらっているのかもしれない。