『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』私のモロッコ紀行(2)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月03日 | 藤井新造

私のモロッコ紀行(2)

芦屋市 藤井新造

アフリカ大陸への入口の港町タンジェから、メグネス、フェズヘ

 カサブランカからモロッコを時計廻りで移動する次の都市がタンジェである。

 ここはスペインの南アルヘシラス港よりジブラルタル海峡をフェリーに乗り、モロッコヘ着く有名な港町である。フェリーでの乗船時間が約2時間半と言う。もっと時間を短縮したい人は高速艇を利用すれば1時間20分で渡れる近さにある。それ故、ヨーロッパ、アラブの国から多数の人々がこのルー卜でやって来ると言う。

 それと、昔から貿易の要所として栄えた都市である。確かに地図を広げてみれば、地中海上の西の港町として好個の位置にあることがわかる。メディナ(旧市街)のプチ・ソッコの丘から下方の港を見渡すと、フェリーの発着場が見え、土曜日のせいか若者たちの群がりがあっちこっちに見られる。この光景は大阪の天保山の波上場でたむろしている若者の姿と何ら変わらない。

 但し遠方へ眼を移すと、左側が大西洋、右側が地中海とくっきりと区別される雄大な場所なのだ。

 そしてここからスベイン半島が幽かに見えてくる。かすみがかった雲にさえぎられながら見え隠れしながら見ることができた。

 タンジェからフェズに入る途中の街メグネスでは有名なマンスール門、ムーレイ・イスマイル廟を見学した。前者は北アフリカで美しい門として有名で、後者はモロッコで非ムスリム人、即ち私みたいな異教徒でも入場できる数少ない霊廟である。

 つい数ヵ月前のトルコ旅行でも、数多くのモスクを見たが入場できた所は少なかった。

 勿論、地元の人と私たちとは一様ではなかろうが、一般にイスラム社会では宗教施設を厳粛な場としていて、観光客にあまり開放していない感じである。

 ムーレイ・イスマイル廟は、建築物にさほど興味の無い私であるが、内部は壁から天丼にかけてのモザイクや漆喰彫刻の見事さに「なるほど」と感嘆させるものがあった。

 一方、ムーレイ・イスマイルのこの時代(17世紀)キリスト教徒弾圧のために作られた地下牢、ここは4万人もの囚人が足を鎖につながれ収容された場所という。宗教対立が激しく、異教徒にたいして仮借なき弾圧の手段をとった時代とは言え、この牢は囚人にとってあまりにも苛酷な場所である。

 タンジェからモロッコの中央部に位置するメグネスヘの道、そしてメグネスからフェズの街に通じる地帯は、果物、野菜畑が延々と続く緑に覆われ、この国が農業国であることがわかる。

 ここはアフリカでも肥沃な大地なのだ。列国、特にフランス、スペインが植民地として長く統治した理由がわかった。今でもタンジェの街の一角はスペインが宗主国として君臨していると聞いたが、さもありなんと思った。

 丁度、ドイツがチェコスロバキア、ポーランドをユダヤ人虐殺の目的と同時に、その国の豊かな大地を欲しがったために侵入、占拠したのを、両国を誘れた時感じたが、今回も同じ思いを抱いた。

 このモロッコの大地では、今も農婦がロバにまたがり畑の中の道をゆっくりと通り、小型の中古らしきトラクターを運転している農夫、放牧のなかで働いている少年などが見られる。何とのどかな農村風景ではないかと、私はみあきることなく眺め、私が少年時代育ったなつかしい村を思いだし感傷にひたっていた。

 フェズはタンジェの港町から南東へ約200kmの位置にある古い都市である。フェズの街に夕方に着き、既にあたりは暗くなっていた。夕食まで1時間余りあり、ホテルに荷物を置いて早速散歩にでかける。散歩と言ってもホテル周辺を歩いただけであるが、小さい公園では若い男女があっちこっちのベンチに腰掛け、二人だけの会話を楽しんでいる。この小さい公園にふさわしく、小型のメリーゴーランドが廻っていて、孫の祖父らしき人が幼児を乗せて遊ばせている。公園の一角に、よく見ないとわからない位の小さい文房具店があり、つれあいが子供に投函するはがき用の切手を買う。

 この国では切手を売っている店と、タバコを売っている店を注意深くみていたが、両方共に見かけることはなかった。

 タンジェの中心街から少し離れているせいかホテル周辺は閑静で、背の高い街路樹が程よい間隔で植えられている。

 翌朝よリフェズ市内の名所、旧跡めぐりである。ここはモロッコ最大のメディナ(旧市街)があり、午前いっぱいツアー一行は歩くことになる。

 このメディナの迷路こそ、カサブランカのそれを一廻りも二廻りも大きくしたものである。

 狭い石畳を下ったり上ったり、又曲がりくねったりして歩く方向さえわからない。昼間でも薄暗いトンネルのような路もあり、この狭い路を荷を積んだロバと、手押し車(リアカーに似ている)がひっきりなく往き交う。

 私達日本人を見て、例のカサブランカと同じように若者が「サイフ5個1,000円、ハガキ10枚500円」と手にかざして呼び売り込みがある。

 しかし前述したようにトルコほど執拗に追ってこない。この旧市街地は、周囲26krnの城壁に囲まれているなかにあり、外に出て小高い丘から眺めると整然とした街の風景に見えるから不思議である。どこも赤黄色のレンガで家が建てられ、一見スパニッシュ風の屋根を見渡していると、西欧風の光景を想像させる。

 旧市街の路が狭く暗くしているのは大陸の直射日光を避けるため、この土地の人々が故意にそのような家の建て方をしていると言っていた。そうであろう。この季節(12月初め)日中と朝との温度差が25度以上あり、昼間は暑い位で半袖で歩いている人も多い。

 ここでもユダヤ人街を歩くが、家々の2階には小さいベランダを出しているのが特徴であり、今でも生活をしている人がいるという。

 そして珍しくイスラム教の神学校を見せてくれたが、建物はこじんまりしていて小規模の教室が一つしかなく、今は使われていないと言っていた。

 その他、観光バンフレットで必ず載っている有名な皮「染色桶が並ぶ作業場」が皮製品を売っている店から下方に見えた。

 上述した長い城壁に囲まれた旧市街を出て小高い場所から周理を誂めると、太陽が丘の上の稜線をくっきりと際立たせ、変化する丘の壁と空に浮かぶ雲の絵模様が何とも言えぬすばらしい風景をかもしだし、ここがアフリカの大地であることを忘れさす程西欧風の整った市街地に思えてくる。

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