『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(24a)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月04日 | 熊野より

三橋雅子

<熊野の道>

 牛が草鞋を覆いて馬喰うと歩いた道は、当時は熊野古道とは当然言わなかった。これしかない、一番新しい道だったに違いない。いつから古道になったのか?新しく国道が出来、ほとんど省みられなくなって、あらかたが荒れ放題の、道なき道のようになってから、かつて都から「蟻の行列」をなして熊野詣に通った道を「古道」と称して整備したものであろう。それも「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、古道までが世界遺産に登録されてしまうと、ハイカー・観光客が足繁く訪れるようになる。折角隠遁の地をはるばる探し求めて来た者としては、これはちょっとした脅威ではあったが、何のことはない、観光客が増えたのは遺産登録認定(‘05年7月)後から1年余り、その後は減少に向かっている、と観光課は嘆いている。

 最盛時の賑わいとて、仙人とやまんばのわが住処には、何一つ聞こえてくる騒音も変化もないのだが。

 確かに800を超える世界遺産の中でも、道そのものの遺産は珍しく、他にはフランスからスペインのサンディアゴ大聖殿に至る巡礼道のみであるが、これはキリスト教徒だけが一直線に大聖堂へ向かう道。紀伊山地の参詣道は修験道の「吉野・大峯」、神仏習合の「熊野三山」、真言密教の「高野山」という異なる山岳宗教の三大霊場にそれぞれ向かう道であり、それには「紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し」(梁塵秘抄)の選択があり、紀伊路にも小辺路、大辺路、中辺路という多様なルートがある。宗教上の多様さだけでなく、特に熊野へは貴賎、身分の上下を問わず、女人も禁じられず「聖地」に向かって老若男女が苦難の道を一心に辿った。熊野が何も拒まず受け入れ、何でもあり、と言われる所以か。

 しかし「古道」として復活させる為の手の入れようは、ここまでしなくても、と思うくらい「懇切」である。往時、遥か彼方までの参詣への願いを込めて一足一足踏みしめた難行苦行の追体裁とは程遠い。本宮を訪れる人々は、あらかた発心門王子に向かう。五大王子の一つとしてバスも通り、桜と紅葉の名所でもあり、何より熊野本宮大社の霊域の始まりとあればもっともなことではある。さらに、本宮大社が初めて視界に入り、伏し拝んだという伏拝王子、最後の禊ぎをしていよいよ大社に至るという祓殿(はらいど)王子。(この、随所にある王子、熊野九十九王子といわれるものは、本社に祀られている神の末社で、参詣の便を図るための遥拝所であり、休憩所でもある道標的なもの。)しかしこのルートは、残念なことに大半がアスファルト道である。周辺の景観を除いて、道そのものは当然、世界遺産の対象ではない。見るべきものは多いが、古道を歩くという感触とは程遠い。「古道」を楽しむには、やはり田辺?本宮への中辺路や、石畳が見事な伊勢路であろうか。

 我が家の付近の、つい三十数年前まで子供たちが賑やかに分校に通ったという通学路は、文字通りの古道になって、鎌を片手に草木を掻き分けなければ進めない。また、我が家から二十分ほど薮を掻き分けながら登れば、赤城越えという古道に至る。世界遺産には入っていないが、本宮大社にも湯の蜂温泉へも通じる道でもあり、反対側は中辺路へ到る。古道通が一番いいという穴場の道。

 たまに道を外れた歩き手が、この辺から赤城越えに出られないだろうか、と我が家に迷い込んできたときには、鉈、鎌を手に案内役をかってでる。「古道」に着けばほどほどの整備済みで、たまに猪がミミズを堀りながら横切ったと思しき穴ぼこがある程度、人に会うことは滅多にない。私は時たま、ザックにお風呂グッズと、飲み物を入れて、我が家の風呂場、湯の峰温泉に、この道経由で行く。1時間20分。車なら15分ほど、その車道を歩けば50分だが、アスファルト道は気が進まない。赤城越えの、ふかふかの足元や、岩や木の根がごつごつの、スリルに満ちた行程は、温泉での足腰ストレッチを楽しみにさせる。遮る林が途切れれば、片手に発心門を俯瞰し、片や果無山脈、さらには奥駆道へと繋がる山また山が、熊野燃ゆ、とばかりにどこまでも深く緑を凝縮させている。

 初夏の熊野木々のみ賑わいて

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