『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』**街を往く(其の十九)**<2017.3.&5. Vol.97>

2017年06月06日 | 街を往く

街を往く(其の十九)

藤井新造

海に浮かぶ礼文・利尻島から奄美へ

 昨年(2016年)の1月、離島として本土からあまり遠くない奄美大島・加計呂麻島へ行った。と言っても何時もパック旅行に便乗してである。20年前位から、そうしている。それまで自分でプランを組み、レンタカーから汽車を組合わせて国内旅行をしてきたが、時間的余裕ができたのに安い旅行プランに切りかえ行くようになった。

 自分で言うのは少し気が引けるが、離島と北海道へは比較的よく行っている。北海道へは一度行くと海外旅行と同じくやみつきになり、7~8回におよんでいる。あの広い大地を車(レンタカー)で走りたいが、先ずパック旅行にはじまり、今まで全部パック旅行で終わっている。それでも、あの広々とした大地を観光バスで走るだけでも、日常からの解放感に浸り、再度行きたくなる。

 そこで、さて離島であるが、私は奄美大島へは一回も行ったことがないのに気づいた。この島から南にある徳之島、宮古島、石垣島、西表島、(後に波照間島)へは、友人と一緒にツアー旅行(と言ってもホテルの予約)を楽しんだことがある。その前に少しだけ北の国に触れておきたい。

 稚内市の沖、約40km先に浮かぶ礼文、利尻島である。稚内を訪れる人は、多分この両島に行っていることが多いと思う。特に利尻富士は、どの季節に行っても、その威容さに感嘆せずにはいられない。最近の新聞では連日、ツアーの広告で賑わっている。私の場合は、他の人も同じであろうが、珍しい花が咲く初夏に行った。

 大型フェリーに乗船して稚内港を出航し、まもなく大きく揺れだした。添乗員の女性が、「この季節、これほど揺れるのは珍しいですよ。」と言い、座っていると気分が悪くなるので、身体を横にしていた。私は海の近くに育っているので、少しは慣れていたが、やはり横になり寝ていた。所要時間は2時間くらいであった。

 礼文島は別名「花の浮き島」と呼ばれるだけのことはあり、レブンウスユキソウ、レブンサクラソウ、レブンアツモリソウなどなど。そして礼文林道では、この他、礼文特有の花々が多く見られた筈であるが、私は残念ながら花の知識に乏しいので、ここに描写することができず残念である。

 私は花より、むしろ北端スコトン岬の岩場に生息するトドの一群が珍しく、眺めていた。行った季節は初夏だったので、花を愛でる多くの観光客がいて、歩道が狭く気分的に忙しかった。花の名前がわからずとも、もっとゆっくり鑑賞しながら歩きたかったが、それが叶わず少し残念であった。

 この礼文島より南を向くと利尻富士が目に入る。利尻富士は稚内の平野から見ると、誰しもその地に足を踏み込みたくなるほど端正で、「小富士」と感じさせる島である。標高1,721mであるが、まさに浮島の言葉にピッタリである。稚内を宗谷岬から左廻りの時は右に、留萌から右廻りの時は左に、何回か見たものである。また、観光バスが右に左に迂回する時、尚一層美しく見える。

 稚内の港は、北防波堤ドームがあることで有名である。樺太航路が出入りするための港、昭和6年から5年かけて建造されたもので、長さ427m、70本の柱で支える世界唯一のアーチ型の防波堤である。私が行った時(2010年)は、ロシアの貨物船が停泊し、日本の中古自動車を購入しに来ていたロシア人を多く見かけた。稚内の公園に登ると、ここは石垣島からの距離が丁度2000kmという地図板があり、日本も長細い列島群なのだと、あらためて実感した。

イモーレ(※注)奄美大島・加計呂麻島

 今では、奄美大島は飛行機で往きは約2時間、帰りは1時間30分である。私は、うかつにも奄美が、こんなに短時間で往復できるとは知らなかった。そう言えば、徳之島在住の知人の年賀状に何時も、鹿児島県とあり、あらためてここが沖縄県でないのを再確認したことであった。

(※注)「イモーレ」とは島言葉で、「いらっしゃいませ」の意味。

 奄美へ行った目的は二つあった。一つは、尼崎へ奄美出身の人が仕事と住居を求めて多数来ているので、その人達の故郷を見ておきたかったのである。働く職場は、鉄鋼産業の下請け、二次下請けで、きつい危険な作業現場が多かった。高度経済成長の1970年代末から若者だけでなく、年配者も仕事を求めて尼崎に多くの人(出稼ぎ労働者を含め)がやってきていた。特に、尼崎市長が求人募集の一役をかい沖縄へ出かけて行ったと、尼崎市史に書かれている程である。

 私は仕事上、多くの奄美大島、徳之島、宮古島、石垣島出身の人と接触があった。これらの島(八重山諸島を中心に)出身者は、尼崎での生活が安定すると、島の知人、友人を呼び寄せ、各職場で共同作業をするグループが多くあることも知った。そのことによってか、奄美出身の人たちが県人会をつくり、一年に一回の盛大な集まりで、親睦と連帯を強めていると聞いたことがある。

 恥ずかしい話であるが、長い間、奄美は沖縄県とばかり思い込んでいた。そこは鹿児島県であり、日本の離島で一番面積も大きく、人口も6.3万人も住んでいるとガイドの説明があり、そのことを知った。

 先ず、奄美で有名な北部のあやまる岬を訪れ、奄美パークへ入った。ここは奄美の民俗資料展もあり、歴史がわかりやすく理解できるようになっていた。まあ、しかし何よりの楽しみは田中一村記念美術館に入館できることであった。私は彼の原画を見てなく名前を聞くのみであったが、美術館の建物も立派で、それにふさわしい絵画が展示されていた。栞(しおり)をみると、年4回、絵の入替を行い展示しているという。

 この展示室は、モネの睡蓮の絵を展示しているオランジュリー美術館を思い出させた。展示室の壁の中に、絵がすっぽりはめ込まれているように見えた。栞には、一村は「昭和33年、50才で奄美大島に移住し、昭和52年に69才でひっそりと誰にも看取られずに生涯を閉じた。」と書かれていた。この常設館は、もっと世に広まってもいいと感じたが、惜しいかな、ここまで来て観る人は少ないのであろう。

 次に訪れたのは、黒潮の森マングローブパークである。マングローブの森といっても、西表島ほどの規模もなく、小さい樹木なので少々がっかりしたが、それは仕方ない。しかし、ここではカヌー漕ぎをさせてもらった。私にとっては、初めての体験である。穏やかな川の流れの中なので、さして難しくなかったが、それでもカヌーの横揺れを防ぐ漕ぎ方を皆必死になっている。私にとっても、子供の頃を思い出し、面白かった。

 一日目はそれで終わり、二日目はデイゴの並木の見学、油井岳展望台より大島海峡を見渡す景勝の地を案内してくれた。当然、南に位置する加計呂麻島へ半潜水船で渡った。加計呂麻島といえば、映画『神々の深き欲望』のロケーションの地であったと、記憶にあるが、正確には思い出せなかった。(編集者【注】;今村昌平監督のこの映画のロケ地は、沖縄県の南大東島・波照間島などであると解説されている。)

 それより、作家の島尾敏雄が海軍で上級将校として派遣されていた筈である。その名残りとして旧海軍特攻隊跡のコンクリート建物が残っていた。小さい窓が海峡に向かってあり、この窓よりアメリカの軍艦の通過するのを見張る要塞になっていたという。なにより、島尾敏雄の文学碑を見たかったのを忘れ残念であった。帰宅してから、彼の『死の棘』を読みかけたが、難解(?)なのでやめてしまった。

 3日目は、大島紬の作業工程と奄美焼酎の製造工場の見学である。焼酎の工程については、宮古島で一度見学したことがあるが、ここは製造タンクもいくつかあり、大きい工場である。土産物を見学し、何回も試飲しているうちに、私の頭脳はもうろうとなり、細部の事は忘れてしまった。

 それにしても、奄美が本土のすぐ近くにあるにもかかわらず、自然が乱開発されていないのが、何より嬉しかった。

 奄美大島「ありがっさまりょーた」(ありがとうございました)

 奄美大島行きの感想が、何時のまにか離島断片記につながり、おそまつになってしまった。

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