『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(24)**<2007.9. Vol.48>

2007年09月03日 | 熊野より

三橋雅子

<「私のシベリヤ物語」本宮を駆ける>

 いささか古い話になってしまったが、「本宮9条クラブ」なるものが、数少ない若者を代表者にして発足したのは、この、古い高齢者の町では瞠目に値することだった。生みの苦しみには数ヶ月を要した。ここでなにやら活動らしいものをするといえば、先の市町村合併反対運動と同じく、共産党が核になるしかない。森林組合で働く若い「よそ者」達は組織が嫌だと言う。共産党色プンプンのビラは配る気にならない、あの抵抗感が分からないから、共産党は至極もっともな正論をどんなに展開しても選挙で票を取れないのだ、と。僅か10人足らずの発足準備会は、毎回堂々巡りのぶつかり合いとなった。こうもりの私はそのたび別々で発足しよう、その内一緒になれるかも、と提案するのだが、そうなりかかっては行きつ戻りつで振り子は止まらない。ところであんたはどっちに入るの?と訊かれて、両方です、と答えると、ほう、若いつもりなんだ、と失笑を買った。

 お互い人手も資金も足りないのが目に見えている。遂に老共産党は後方支援の形で、私自身もひどく抵抗を感じる名称で発足に至った。お産の軽い私には「生みの苦しみ」なるものがこんなとはとても想像できない。しかし正に案ずるより生むが易しで、とんとん拍子に会報が出たが、これを配るのが一苦労。出来たからには全町民に読んでもらいたい。大枚はたいて新聞折り込みも試みたが、配達地区はほんの一部、新聞と無縁な家が多い。(我が家などは新聞くらい欲しいと思っても、配達がない。毎日の郵送料を払えば来るが、郵政公社にそんなお金は払いたくない。)そこで、わがら(自分達)の手で各戸配布をすることになった。戸数にして2000余り、西宮で道路と水源池問題のビラ配りや署名で歩いた、当時3500戸の北六甲台を思い出すと、わけもなさそうだが、一つの集落に2~30戸固まっていれば御の字、我が家のように中心部の本宮大社から10キロ、人里離れてから2キロほどで4軒、更に2キロ分け入って離れ離れに我が家を含む3軒、というようなところも決して珍しくない。中には石段を100段登ってやっと一軒というようなところもある。だからといって飛ばす事は出来ない。段々配布員もばてて来たり脱落して、土地勘のない私も、いくらかでも知っている所、などと贅沢はいえなくなり、地図を頼りにどこまでも足を踏み入れた。おかげで本宮地区の大部分の土地勘が養われた。

 しかし大抵は段々に沿って、てんでに点在する同じ格好の家並み、塀もないから次々と隣に登ったり下ったり、ずるずると辿っていくと、入れた所、入れてない所が分からなくなる。表札は大体同じ苗字。目印にニュースの端を郵便受けの口に挟んでおくが、確かここは入れたはずなのにない!へンだなあ、と自信をなくしながら入れようとすると、もう貰ったで、と縁側で読みふけっていたりする。一生懸命、眼鏡をかけて、時には声を出して読んでくれている。張り合いがあった。かつてのように、目の前で右から左ポイされるのとは大違い。書き手は原則町民に絞った。こんどは誰々さんが書いてるから読んでくださいね。というと、俺よリ2級下やった、まだ元気しちょるかとか懐かしがる。極力写真も入れた。あいつもよくよく年取ったもんじゃなあ、と自分のことを棚上げして感心したりしている。

 配布物にシリーズ「憲法への私の想い」の連載を始めたとき、第1回目を持たされた私は「新憲法、は希望の星だった」と題して、幼いながら、敗戦後の大人達のぼろぼろの姿の中に、安堵感と新しい時代への期待が漲る明るさを思い出して書いた。戦後満洲から引き揚げてきた時の無残な想いと大人たちの開放感が、間もなく発布された新憲法への期待や明るい展望に凝縮されていたように思う。あの暗い、陰惨・無情な時代から脱却して、日本再生の展望が託されたのが新憲法だ、世界に誇る理想の憲法だ、と教師達も熱く語った。その一文をちゃんと読んでくれている証拠に、「あんた、引揚者だってねえ」と声をかけてくれる人も多々あることに驚く。年寄りの真面目さに勇気を得て、また石段の上がり下りに精を出した。

 しかし時には「こんなことやって、なにになるねん。」と言われることももちろんある。「そうですねえ、無駄骨かもねえ。」しかしかつての署名集めに、「暇人やなあ」と皮肉られる事しばしばだったのに比べれば腹も立たない。やっと辿り着いた石段で、「何のタシにもならん」のおっちゃんは「大体近ごろの、あんたみたいな若いモンが、我々の年代がどんだけ命からがらの苦労したかわかんねだろ」には、こちらも黙っていられない。戦争を知らない「若いもん」とは…。子供とはいえ11歳で満州から引き揚げてきた時のこと、その前のソ連兵達の横暴無残な略奪その他、あやうく残留孤児になったやも…の命からがらのあれこれをブワーッとまくし立てた。で、おっちやんの命からがらは?南方?と振れば、いや、そのひどいソ連や、シベリヤに4年いて帰ってきた。とおとなしくポツリボツリと話し始めた。よーく生きて帰ってこられたねえ、お互いハラショーハラショーだねえと、恨みのはずのロシヤ語が出て、手を取り合って涙ぐんだ。

 私はすぐに,砂場さんの「私のシベリヤ物語」を届けた。彼が暗い電球の下で、鼻水をすすりながら活字を辿る姿が眼に浮かぶ。

 本宮は高齢者人口が40%を超えた。限界集落はあちこち、我が家の回りは超限界集落か。ということは戦争体験を持つ老人パワーが溢れているということだ。これを利用しない手はない。「戦争体験を語る会」が始まった。戦艦大和の生き残りがいる、ニューギニヤの生還者、満州荒野を一人、本陣を探してぽつぽつと歩いた、かつての少年兵…神戸の大空襲で3日間焼け焦げた死体をひっくり返しながら、親を捜して回った、かつての少女、来る日も来る日も眠らず手当てをした、かつての健気な看護婦……彼ら、彼女らはしゃべりだすと止まらず、語る会は終わらない。総出で出世の見送りしてくれてなあ、ほれ、あそこの〇〇橋で万歳して、誰やんも一緒だった…とかで始まり、移動のたびに途中下車していると、肝腎のニューギニアまで辿り着かず、止む無く閉会になるのであった。それでも16歳で志願していく心情や、当時の村人の気持ちなどがひしひしと伝わってくる。戦争の悲惨は、戦闘員の悲劇だけではない。

 私はかつての兵士に、泣く子も黙る強大無比の関東軍は、中国大陸の在留邦人を棄民して逃げたが、軍隊の中で、兵隊達は救われたのかどうか、と訊いた。8月9日のソ連参戦後いち早く関東軍総司令部はわずかの留守居役を残してもぬけの殻になった。総司令部を安全な場所に移す、という名目ではあったが、仮にそれが賢明な策であったとしても、危険な首都から避難しようと列車に群がる市民達を阻止し、自分達の家族を優先して、家財道具一切、ピアノに至るまで積んで、あるいは軍用機を飛ばして、いち早く内地に逃がした。国も軍隊も決して我々を救ってはくれない、それどころか凶暴残虐な日本軍のお陰で、その犠牲になった身内への、仕返しの鬼となった輩のターゲットになったのは、何の罪も犯していない、けなげな開拓団の人達や、辺境からの、あるいは首都新京からの避難民達だった。我々は、無政府状態で横暴を極めた「戦勝国」ソ連の、荒くれ囚人部隊のなすがままの暴挙にも、素手で、知恵だけで身を守るしかなかった。ひたすら国体護持の名目で、一方的に強制的に協力を強いられただけの軍隊や国を、誰が信ずることが出来よう。

 「わしら一兵卒はやはり捨てられた方だ。ここで解散だ、と身一つで満州荒野に放り出された。しかし、列車が支給され、それに乗って帰る手立てがあっただけましかも知れん。途中民間人にすがりつかれ、子供だけでも乗せて行ってくれ、と泣いてしがみつくのを、軍の命令で乗せるわけにはいかん(解散したのに何で軍の命令に従う?と不思議だが)と列車の枠にしがみつく必死の手の指を、一本ずつ剥がして振りほどいたあの感触が、今でも忘れられん」と辛そうに言った。

 帰りに、「わしも満州に駐留しててな」と懐かしそうに言ってきた人がいた。「そのままシベリヤ行きや、4年後に帰されたが、生きて帰ってこられたのは全く運のいい方じゃ。皆よう次々死んだもんなあ。」私は持っていた「私のシベリヤ物語」を渡した。翌日電話があった。「一気に読みました。自分の体験が書かれているかと思った。(後に砂場さんが配置換えになったところが違うだけで全く一緒だ。)実に良く書けていて、わしの言いたいことも全くそのとおり書いてくれている。後書きも実に同感だ。こんな嬉しいことはない。」電話の向こうの声が潤んでくる。私は懐かしいであろうと、思い出す片言のロシヤ語を並べた。「ヤポンスキー(日本人)、アジン、ドゥバ、トゥリー、チェトゥイーレ…(1、2、3、4…)、ダヴァイ・ラボータ(しっかり働け)、私達はダヴァイ・ジェンギ、タヴァイ・チャスイ(早く金を出せ、時計を出せ)と毎日言われたものですよ。彼らのタワーリシチ(同志)はなんや…」と尽きなかった。

 彼は「ほんとに嬉しかった、この本の著者に、ついでがあったら、お礼を伝えてください」と滾々と頼まれたのに、私はまだ果たしていなかった。この場をお借りして、心からのお礼と、今までサボタージュしていたお詫びを申し上げます。砂場さん本当にご苦労様でした。そして本宮の住民にもこんな感動を与えてくださって、本当にありがとうこざいました。

 秋の雲遠きを語る想い乗せ

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