『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』人は各々遠くへ行きたくなる時がある**<2008.3. Vol.51>

2008年03月03日 | 藤井新造

何故旅行をするのか
人は各々遠くへ行きたくなる時がある

芦屋市 藤井新造

子ら泳ぐ歓声のなか塩積みし艀はしげと運河を通う  山本みつえ

 何故人は遠くへ行きたくなるのか。各々理由があり旅立つのであろう。私の場合はっきりした理由が見つからないが、時々そんなことを考えてみることがある。

 勿論、人に誘われて、その時の気分により軽いノリで近くへ行く時は別にして大概はあとで考えてみると、やはり動機らしきものはある。

 それで思いあたるのは、私は小さい頃より18才位まで瀬戸内の小さい狭い村で育ったのでもっと広い所、遠くへ行きたいと言う願望を絶えず持ち続けていた。村の背後には300m~400m前後の山々が有り、一応五色連山と呼ばれ親しまれていた。東南の方向にあるこの小高い山と、西には海があり、海のなかには瀬戸大橋開通のため今は陸続きになった沙弥島をはじめ塩飽諸島が点在していた。そして、私の生まれた土地にはなくなった「塩田」があった。(このことは何回かここに書いている)小高い山々は頂上近くまでみかんの木が植えられ、我家もわずかばかりのみかん畑からの収益により生計がなりたっていた。それ故、夏など物心ついた時、みかん畑にいた。父母が早朝よりみかん畑に出かけた時、私が弟と一緒に父母がこしらえていた昼弁当を遊びながらみかん畑に届けるのが日課だった。

 みかん畑の中腹より眼下に塩田があり、そこで忙しく働いている人達が蟻の如く絶えず動いているように見えた。塩田特有の作業である。この作業ここで簡単に説明するのは難しい。たまたま私の母の従妹が記録した『浜曳きのうた』(短歌集・山本みつえ著)を少し長くなるが引用して参考にしてもらう。

 「浜人の朝は早い。男衆たちが4時頃には浜に出て、昨日沼井台に掬い入れ鹹(かん)を漉したあとの湿った砂を金鍬で掘りだしている。……冬と夏は塩田のかき入れ季であり、肉体的に最も苦しい季節でもある。11月になって霜がおりると、ひたひたと鳴る自分の草履のおとにおびえながら暗い道を朝場に行き、棒のようにかじかむ素足で、昨日仕上げに曳いた反対の方向に馬鍬を曳くことによリー日の作業が始まる。

 私の地方では「塩田で働く人のしんどさ(肉体的疲労)について、あのきつい仕事がこなせたら、どんな仕事も軽いものだ」と言われていた位の重労働であった。

 その塩田の向こうに海があり、左方から沙弥島、そして真正面に瀬居島があり、この島の人家は肉眼でも見られた。この島から右の方へ、牛島、広島、本島、高見島と続き、その端は岡山県の下津井か水島あたりに延びて見えた。太陽は何時も五色連山から昇り、この島々の間に没していた。

 みかん畑の中腹から頂上に抜け頂上つたいに30分余歩くと隣村の大越村が見え、右遠方と言ってもそれ程遠くない距離に無人島の小槌島、大槌島が海に浮かんでいる。この島の東を今は廃止になった宇高連絡船が走っていた。そしてみかん畑より左の方向をみると、讃岐山脈、晴れた日には背後の四国山脈が見えた。

 私の身体と心は、村の背後の小高い山々と塩飽諸島の間を動いていたが、何時も当然とは言え、この狭い空間を抜け出し、ふと遠くにみえる四国山脈の高い山へ行きたくなった。あの山脈の山の頂上へ行ったらどんな感じがするのだろうかと漠然と考えた。そして17才の時、石鎚山に登りたいと母親に言った。母親は「毎日みかん畑に行っているのに山へ行っても面白くないのでないか」と、私に言葉を返してきた。私は返答の仕様に困り黙っていたが、その夏単独登山を決行した。

一人で石鎚山へ登り、翌年は友人と剣山へ行く

 毎日みかん畑に行き農作業を手伝っていたので、「足」の方は自信があったが、石鎚山登山の地図がないので困った、そこで市立図書館(今は使用されていない)でおおまかな地図を探し、登山口に近い降車する駅とか、どの位の時間で1日目でどれ位登れるか、宿泊施設とか大体のことを調べて出かけた。多分最初の1日目の弁当は二食分位登山に賛成しなかった母親が作ってくれたと思う。

 当時の国鉄の西条駅を降り、近くの小さい雑貨店で登山道の入口を聞いた。年配のおばさんは丁寧に道を教えてくれ「熊が出てくるので、どこかで鈴を買って行け」と注意してくれた。しかし鈴を売っている店らしきものは見当たらず、アバウトな私は誰か登っているグループがあり、その後にくっついて行けばよいと安易に考え鈴は買わなかった。そして偶然にも広島県の教師グループに会い宿泊も同じ宿にした。(宿泊して教師であることがわかった。)その夜は、彼等の話を聞き、私が将棋はできると言うと、そのうちの一人が相手をしてくれた。一人で登っている私に寂しいだろうと同情の念を寄せてくれた結果である。しかし、私は教師一般があまり好きでなかったので、他にも登山者がおり、自然と彼等のグループと離れて登った。石鎚山の山頂付近は険しい岩場であり、鎖をたぐりながら登った記憶がある。この登山の経験から、私は一人ではやはり面白くない。がやがやと友人と話ながら山へ登るのがいいと思い、次回は誰か友人を誘って行こうと決めた。

 翌年の夏、親しい友人二人を誘い登山計画を立てた。今度は石鎚山と並ぶ高峰の剣山に登りたいと提案した。前回は小屋泊まりであったが、テントで野営することにした。しかし、そのテントが当時、55年前なので知人、友人の間で探したが持っている者がいなく、学校で運動会用に使用していた麻と綿で作られているテントを拝借することにした。担当の教師は「注意して行くように」と一言だけ声をかけ、気持ち良く貸し出しを許可してくれた。しかしこのテントが重く登由に苦役を強いた。

 最初の一日目はどの駅で降りたかを忘れたが、登山道は人が登っている形跡がない。材木を運搬する林道、トロッコの線路とか渓谷の裾野の道は、木の丸太棒2本をくくって道にしている箇所があり、小川に落ちそうになった箇所もあった。リュックのなかは、飯盒炊飯できる食料品の材料でいっばい、しかも鍋持参なので重いことこのうえもなしの感じである。一日目は疲れがそれ程でないが二日目からはテントの布が夜露を吸って、これを担ぐ人間に大変な重さでのしかかってくる。テントは二人が交代で担ぐ順番を決めていたが、その者の足どりの重いこと。テントを担ぐ者を先頭にして、後から二人で追いあげるようにして歩くのだが、先頭の足元はふらふらしている。休みを多くしたいが、予定通り進まないので、休憩を少なくしゆっくり歩くことにした。日頃山歩きをしている私にと
っても「難行苦行」とはこのことかと思えるほど、足がふらつき前へ進まない。帰路は有名な奥祖谷二重かずら橋を通った記憶があり、ゆるやかで整地された道だったので、後から考えると往路と復路を逆にすればよかったのだ。

 初めての山なのでそんなことを知る材料もなく登ったので、最初は「苦行」の連続であった。それでも自分らで苦労して運んだ食材で料理し、河原で炊飯したのは(カレーライスだったと記憶するが)今にすれば懐かしい思い出の出来事であった。と言うのは、料理らしき物を作っていないが、このことは生まれて多分初めての経験であった故である。

 この夜は、昼間のしんどさが手伝い、三人ともあまり話し合うこともなく眠りについた。二日目は前述したように、道らしき登山道はなくその上きつい上り坂の行程で、三人共々足をふらつかせながら歩いた。そんなに苦労して登頂したのだが、頂上は霧がたちこめて視界がわずか身の周辺しかきかず、長居すればやばいと判断し山を下りることにした。折角だからもう少しの時間おりたかったが、霧が晴れる様子もなく、そのような状態のなかで座っていても気持ちが落ち着かず、その上登山者が少ないので早々に退散することにした。帰りは、食材も少なくなり各々のリュツクも軽くなっていたので、比較的足取りが軽くなっていた。二日目の夜は頂上より少し下がった小さい池のほとりでテントを張った。その夜は皆でテントの外に出て、月光が冴えた満点の星の下、一人がハーモニカを吹いて仲間の気持を和ませてくれた。

 私の旅への始まりはこのようにしてスタートした。

 

この絵は、この文のカツトに使ってほしいと、藤井さんから提供されたものです。紙の『みちしるべ』では、紙面割り振り上、表紙になりました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『みちしるべ』**国土交通... | トップ | 『みちしるべ』北極の化石探... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿