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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』私のモロッコ紀行(3)**<2007.11. Vol.49>

2007年11月05日 | 藤井新造

私のモロッコ紀行(3)

芦屋市 藤井新造

フェズの街よリアトラス山脈を越え砂丘見学のためエルフードヘ

 いよいよ今回の旅行の目玉商品である砂丘見学のため、アトラス山脈を越える日である。

 山脈と言うだけあって4000mの標高がある山々がほぼ東西にわたり延びている。フェズの街を出発し、高級別荘地の間を通り抜ける。どの家も広大な土地に、何百坪もありそうな豪邸ばかりである。殆ど王家の係累のエリート族の別荘地と言う。ヘミングウェイの小説の題名「持つ者と持たざる者」を思い出し、ここでは貧富の差が歴然としているのを見せつけられた。

 この一帯を通り、1時間半も車が走るとアトラス山脈の山々の嶺がくっきりと見える。先ず中アトラス山脈からアトラス山脈へと、山の稜線を大きくまきながら峠越えである。車窓からの風景は、映画のフィルムを廻しているように変化する。赤茶色の土地であり、樹本も少なくなり、標高2178mのジャアド峠にさしかかっても、ここがそんなに高い場所であるとの実感が湧いてこない。

 アトラス山脈を越え、平地の方へとおりかかると、リンゴ畑がある。そしてこの地では大理石が多く採掘さねる鉱床があると言う。そのせいか道路上でアンモナイト化石を売っている小さい出店が、一定距離をおいて在るのを目にした。

 エルフードでのホテルはメルズーカ大砂丘見学のためだけで建てられたホテルのようだ。と言うのは建物の造りは外見上彩色豊かで、だだっ広いロビーがあって、ホテル内は安っぽい感じの装飾品ばかりである。

 早朝4時過ぎに起きて砂丘での日の出見学への準備。ロビーの温度計は気温4度。外は暗くて寒さのため厚着をし、マフラーを首にまいて外に出る。添乗員より番号札を渡されその番号の貼った4輪駆動車に4人乗車した。

 暗いので外の様子は全然見えない。乗車した中古車らしき車は、デコボコ道を容赦なくスピードをあげて走る。悪道のせいもあろうが、ドーン、ドーンと大きい音を響かせ走るのでお尻がはねあがり揺れる。前部のワッパを強く握りしめていないと身体が外に飛び出すのではないかと思えた位である。

 周辺は何台かの車が同じ方向を目指して走っているのが、車のライトの灯でわかる。およそ50分も走ると、日の出が拝める砂丘に到着する。時計をみると6時半である。そこから徒歩で50m位ラクダに乗る場所まで歩くのだが、細かい砂なので歩きにくいことこの上もなし。息もたえだえ身体を前のめりにして左右の足を交互に持ち上げ前進する。そう、泥沼に足を入れた時の感じとよく似ている。映画では、現地の人が軽々と歩いているが、普通の靴では砂丘を歩くのは難しい。

 私は、ラクダに乗るのははじめてであり、少し不安もあったが、ラクダの背に鉄製の横棒の取手があり、両手で強く握っていると、あっというまに太陽が昇るのを拝める場所に着いた。到着した砂丘の場所では、私達のツアーだけでなく、いくつものグループがあっちこっちに点在して固まっていた。言葉は、英語だけでなく中国語、韓国語も聞こえてくる。そういえば、どこかの街角で「チャイナー」と聞かれたことがあり、面倒なので無責任にも「イエス」と答え返したこともあった。

 まもなく7時前になると東の空に薄い光が射してくる。そして予定された如く丁度7時15分に太陽が姿をあらわす。前方向180度以上の広角に昇ってくる太陽を眺めることができた。まさに自然の幻想的な風景を肌で感じるような喜びを味わった。

映画ロケーションの地、ワルザザートの街

 砂丘見学を終え、今回のツアーで最も西の街、ワルザザートヘと向かう。途中モロッコのグランドキヤニオンと呼ばれているトドラ峡谷へ昼食のため立ち寄る。街道では両側でナツメヤシの木がたくさん植わっている。この峡谷の小川のほとりのレストランで昼食をとったが、面白いことに、言うと怒らねるかもしれないが、アルコール類は一切おいてない。従ってのみたい人は持参して下さいと、添乗員が前以て説明していた。戒律(禁酒)を守るイスラム教徒の信者が多数居住している土地のせいかもしれない。

 この峡谷の川沿いで衣類を洗濯したり、それらを木の枝とか、木と木を紐でつなぎ干している光景をみかけ、なんとなくなつかしかった。この地方では、先住民のベルベル人が早くから定着し、今も自然の中で昔からの習慣として、川の水をこのように上手に利用しており、家屋は赤土を使い、日干しレンガを作り組み建てており、それは古代から人間の叡知を活かした生活の営みが延々と続いているように窺えたからである。

 ワルザザートヘ行く街道は別名バラ街道と呼ばれている。途中、日本の道の駅の大きさのショップでバラの花からとれた化粧品、オイルを売っており、ご婦人方は一斉にそのコーナーに殺到していた。又、道端でナツメヤシの乾燥したものを売っている人がいる。試食すると結構おいしいので、1kgの箱詰のものを買った。

 ワルザザートヘの道をおよそ500m以上の峡谷に沿ってバスが走る。トルコでコンヤからカッパドギアヘ向かう200kmの行程でも確か信号は一つしかなかったが、ここも同じである。但し、ここは薄黄色で、どちらかと言えば、赤く黒ずんだ土の色に近く、陽のあたりようで山の麓の色が変化に富み単調さがない。

 ワルザザートの街はずれに、映画製作所が三つもあり、映画『アラビアのロレンス』の舞台になった村を通る。このあたりは、映画『アレキサンダー大王』のシーンが撮影されたと聞くが、砂漠に近くロケーションとして格好の土地だったのかもしれない。

 ワルザザートからマラケシュヘの道も、2260mのテイシカ峠を越えて行く。オート・アトラス山脈も3000mから4000rn級の高い山が連なっており、この山脈越えで出会う車は少ない。わずかに建築資材を積んで走っている大型のトラックとすれ違う位である。

モロッコで二番目の古都マラケシュヘ

 マラケシュの街は、北は大西洋から又、サハラ砂漠からと多くの人々が集う都市である。歴史的にみると、11世紀ベルベル人による最初のイスラム国家が誕生し、王朝の宮殿をここに設営した。モロッコでフェズについで二番目の古都である。

 長い間首都がここにあり、商工業だけでなく、学問、芸術をはじめとした文化都市であった。それ故か、旧市街地の建物は整然として並んでおり、公園にはナツメヤシ、オリーブ、の木がたくさん植えてあり、赤茶色の建物の色に対し緑色が映え、美しい街である。西洋のどこかの都市とみまちがえるように、観光用の二頭馬車が人を乗せてゆったり走っている。

 この街に着いてすぐ世界遺産として有名なサアード王朝(16世紀~17世紀)の大墳墓群、バイア宮殿を見学した。王朝の衰退の歴史を説明してくれたが、名前を覚えるのが難しい位古い歴史のある都市であることはわかった。

 私がモロッコヘ行って見たかったのは、最初のカサブランカの街、続いて大砂丘見学、そしてジャマ・エル・フナ広場であった。

 まだ明るい陽が射す間を利用して1時間余りこの広場を見て廻る。何千人もの観光客が集う大広場は多くの見世物がある。例えば蛇使いが笛を吹くと蛇が起き上がり、周囲の人が興味深く見ている。アクロバット芸をしている大道芸人を囲み、大勢の人が輪を作り見て楽しんでいる。そして広場全体の中央に屋台があり、周辺にナツメヤシ、リンゴ、ミカンの果物類、香辛料などの店が何十軒もあり賑やかである。日本の出店と店の規模も違い大きいものばかりである。

 屋台の一角ではケバブを焼いて食べさす店があり、観光客だけでなく、土地の家族連れらしい客が椅子に座って並んでいる。陽が沈むと、広場全体の各所で電灯が煌々と輝き、まるで昼間のように明るい。

 この広場の北側にスーク(市場)と呼ばれる有名な商店街(?)があり、衣料品、生鮮食品、装飾品、家具、皮革、陶器……と日常生活に必要なものを含め、ありとあらゆるものを売っている。つれあいが鞄を買うため一軒の店に入る。それから値段の交渉が大変である。店員が値段を下げて数字を書き示すのだが、こちらが高いと言うと、「そちらで値段を言え」と言葉が返ってくる。こちらで数字を書くと、首を振って売らない。店の外に出ようとすると、そこは売り手の方でなれたものである。値段を下げて売ると言う。店員が、商品の「売り方」をまるで楽しんでいるように思えた。

 この旅で連想したのは、映画『モロッコ』のラストシーンである。外人部隊が砂漠に向かって行進をはじめた時、この部隊を後追いするように多くの女達が歩いて行く。その女達の一人で、歌姫に扮する女優、マレーネ・ディートリッヒが婚約者との約束をけって、急遽靴を脱ぎすて、愛する兵士、トム・ブラウン(ゲーリー・クーパー)の姿を追う印象的な激写があった。この映画で忘れられない場面である。実は、私のモロッコ旅行への誘いも、この映画の(甘美)な終わりによったのかも知ねない。やはり「女性の靴」に縁があったのか。

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『みちしるべ』私のモロッコ紀行(2)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月03日 | 藤井新造

私のモロッコ紀行(2)

芦屋市 藤井新造

アフリカ大陸への入口の港町タンジェから、メグネス、フェズヘ

 カサブランカからモロッコを時計廻りで移動する次の都市がタンジェである。

 ここはスペインの南アルヘシラス港よりジブラルタル海峡をフェリーに乗り、モロッコヘ着く有名な港町である。フェリーでの乗船時間が約2時間半と言う。もっと時間を短縮したい人は高速艇を利用すれば1時間20分で渡れる近さにある。それ故、ヨーロッパ、アラブの国から多数の人々がこのルー卜でやって来ると言う。

 それと、昔から貿易の要所として栄えた都市である。確かに地図を広げてみれば、地中海上の西の港町として好個の位置にあることがわかる。メディナ(旧市街)のプチ・ソッコの丘から下方の港を見渡すと、フェリーの発着場が見え、土曜日のせいか若者たちの群がりがあっちこっちに見られる。この光景は大阪の天保山の波上場でたむろしている若者の姿と何ら変わらない。

 但し遠方へ眼を移すと、左側が大西洋、右側が地中海とくっきりと区別される雄大な場所なのだ。

 そしてここからスベイン半島が幽かに見えてくる。かすみがかった雲にさえぎられながら見え隠れしながら見ることができた。

 タンジェからフェズに入る途中の街メグネスでは有名なマンスール門、ムーレイ・イスマイル廟を見学した。前者は北アフリカで美しい門として有名で、後者はモロッコで非ムスリム人、即ち私みたいな異教徒でも入場できる数少ない霊廟である。

 つい数ヵ月前のトルコ旅行でも、数多くのモスクを見たが入場できた所は少なかった。

 勿論、地元の人と私たちとは一様ではなかろうが、一般にイスラム社会では宗教施設を厳粛な場としていて、観光客にあまり開放していない感じである。

 ムーレイ・イスマイル廟は、建築物にさほど興味の無い私であるが、内部は壁から天丼にかけてのモザイクや漆喰彫刻の見事さに「なるほど」と感嘆させるものがあった。

 一方、ムーレイ・イスマイルのこの時代(17世紀)キリスト教徒弾圧のために作られた地下牢、ここは4万人もの囚人が足を鎖につながれ収容された場所という。宗教対立が激しく、異教徒にたいして仮借なき弾圧の手段をとった時代とは言え、この牢は囚人にとってあまりにも苛酷な場所である。

 タンジェからモロッコの中央部に位置するメグネスヘの道、そしてメグネスからフェズの街に通じる地帯は、果物、野菜畑が延々と続く緑に覆われ、この国が農業国であることがわかる。

 ここはアフリカでも肥沃な大地なのだ。列国、特にフランス、スペインが植民地として長く統治した理由がわかった。今でもタンジェの街の一角はスペインが宗主国として君臨していると聞いたが、さもありなんと思った。

 丁度、ドイツがチェコスロバキア、ポーランドをユダヤ人虐殺の目的と同時に、その国の豊かな大地を欲しがったために侵入、占拠したのを、両国を誘れた時感じたが、今回も同じ思いを抱いた。

 このモロッコの大地では、今も農婦がロバにまたがり畑の中の道をゆっくりと通り、小型の中古らしきトラクターを運転している農夫、放牧のなかで働いている少年などが見られる。何とのどかな農村風景ではないかと、私はみあきることなく眺め、私が少年時代育ったなつかしい村を思いだし感傷にひたっていた。

 フェズはタンジェの港町から南東へ約200kmの位置にある古い都市である。フェズの街に夕方に着き、既にあたりは暗くなっていた。夕食まで1時間余りあり、ホテルに荷物を置いて早速散歩にでかける。散歩と言ってもホテル周辺を歩いただけであるが、小さい公園では若い男女があっちこっちのベンチに腰掛け、二人だけの会話を楽しんでいる。この小さい公園にふさわしく、小型のメリーゴーランドが廻っていて、孫の祖父らしき人が幼児を乗せて遊ばせている。公園の一角に、よく見ないとわからない位の小さい文房具店があり、つれあいが子供に投函するはがき用の切手を買う。

 この国では切手を売っている店と、タバコを売っている店を注意深くみていたが、両方共に見かけることはなかった。

 タンジェの中心街から少し離れているせいかホテル周辺は閑静で、背の高い街路樹が程よい間隔で植えられている。

 翌朝よリフェズ市内の名所、旧跡めぐりである。ここはモロッコ最大のメディナ(旧市街)があり、午前いっぱいツアー一行は歩くことになる。

 このメディナの迷路こそ、カサブランカのそれを一廻りも二廻りも大きくしたものである。

 狭い石畳を下ったり上ったり、又曲がりくねったりして歩く方向さえわからない。昼間でも薄暗いトンネルのような路もあり、この狭い路を荷を積んだロバと、手押し車(リアカーに似ている)がひっきりなく往き交う。

 私達日本人を見て、例のカサブランカと同じように若者が「サイフ5個1,000円、ハガキ10枚500円」と手にかざして呼び売り込みがある。

 しかし前述したようにトルコほど執拗に追ってこない。この旧市街地は、周囲26krnの城壁に囲まれているなかにあり、外に出て小高い丘から眺めると整然とした街の風景に見えるから不思議である。どこも赤黄色のレンガで家が建てられ、一見スパニッシュ風の屋根を見渡していると、西欧風の光景を想像させる。

 旧市街の路が狭く暗くしているのは大陸の直射日光を避けるため、この土地の人々が故意にそのような家の建て方をしていると言っていた。そうであろう。この季節(12月初め)日中と朝との温度差が25度以上あり、昼間は暑い位で半袖で歩いている人も多い。

 ここでもユダヤ人街を歩くが、家々の2階には小さいベランダを出しているのが特徴であり、今でも生活をしている人がいるという。

 そして珍しくイスラム教の神学校を見せてくれたが、建物はこじんまりしていて小規模の教室が一つしかなく、今は使われていないと言っていた。

 その他、観光バンフレットで必ず載っている有名な皮「染色桶が並ぶ作業場」が皮製品を売っている店から下方に見えた。

 上述した長い城壁に囲まれた旧市街を出て小高い場所から周理を誂めると、太陽が丘の上の稜線をくっきりと際立たせ、変化する丘の壁と空に浮かぶ雲の絵模様が何とも言えぬすばらしい風景をかもしだし、ここがアフリカの大地であることを忘れさす程西欧風の整った市街地に思えてくる。

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『みちしるべ』私のモロッコ紀行(1)**<2007.5. Vol.46>

2007年05月04日 | 藤井新造

私のモロッコ紀行(1)

芦屋市 藤井新造

何故かアフリカ大陸の地に足を踏み入れてみたくて

 4年前にスベインヘ格安のパツク旅行に参加して行った。その時、スペイン南部の沿岸ミハスの街より、アフリカ大睦が幽かに見えた。今回モロッコヘ行ってわかったことは、スベインから見えたアフリカ大陸の土地はタンジェかセウタ地方(共にモロッコの北海岸)であった。距離にすればどれ位あるのか。ガイドの説明によると約70Km。それであれば宗谷岬からサハリンが見えた距離に近い。また晴れた日に東伊豆海岸から三宅島が肉眼で見られる距離にも近い。

 それはそうとして、スベイン旅行を思いたったのは映画『蝶の舌』(1999年スペイン・フランス/ホセ・ルイス・クエルダ監督)の魅力、それとも引力か、にとりつかれたからである。この映画について、私は短い感想文を書いた。要約すると「一言で言えば、この映画は1936年のスペインの時代背景、共和派(人民戦線派)とファシストの内戦時代に突入する前夜の揺れ動く社会突入個人が、教師と生徒を軸に見事に描かれている。

 そして1936年夏より2年間内戦により60万人の市民が死亡し(「スペイン現代史」若松隆著)最後にフランコ軍事独裁体制が36年間にわたり続いたスペイン政治体制の暗い時代の始まりを予兆している名画として紹介した。この映画を観てからいても立ってもおられなくなり、機会があればこの社会の外画だけでも覗きたい気持を抑えきれずでかけた。

 今回のモロッコ旅行も映画『カサブランカ』『モロッコ』『アラビアのローレンス』のロケーションの土地を一度は自分の足で踏んでみたかった。それとスペイン旅行の時、南部の沿岸よりみることが出来たアフリカ大陸に何時かは訪れてみたいと思っていたことを実現さしてみたかった。そのように単純な動機により出発した。

 軽い気持で出発したもののカサブランカ空港までの機中時間は、ドバイ空港での乗り換えれど21時間を要した。出発前に何時もと違い体調を悪くしていたせいか、機内食もほんの少ししか食べられず最悪の状態である。ドバイ空港内では夜中であるが、ターバンを巻いたアラブ人が雑踏のなか多数往来している。さすがここは中東の国であるのを実感する。それと空港内は赤黄色の電灯と石油で燃えるかがり灯で、昼間以上の明るさを感じさせる。サウジアラビアが石油資源で蓄えた富の象徴の如く煌々と輝いている。

 ここからまた8時間を要してカサブランカに着いたのは昼過ぎである。さっそくカサブランカの市内名所めぐりであるが、時間が無くこの日は2ヵ所のみであった。最初の見学はハッサン二世モスクの塔が建っている広場である。塔からすこし離れて眺めると、何の変哲もない徒に長方形の建物である。壁に特別きらびやかな装飾が施されてあるわけではなく、高さは100m余ありシンプルな様相をしている。しかしガイドブックを読むと「ベージュにグリーンの美しい緻密な彫り文様が施されている」建物と解説している。そうであれば、私の睡眠不足からきた視力低下により建物の特徴が見えなかったのかもしれない。

 このモスク前の広場は約10万人が一度に礼拝できる広場であると聞いたが、私にはちょっと信じられないように見えた。

 信仰心が薄い異教徒の私は、モスクを少しだけ眺め5分位西へ歩き、大西洋に面する海岸に向かった。海岸の堤防でどの国でも同じように男女のペアーが腰掛けて海の方に顔を一様にむけ並んでいる風景がある。おだやかな海の先には、日本に送られてくるタコが大量に獲れると聞いていたが、この海岸の近くには漁船のみならず、船舶の姿一つ見えない。さて、カサブランカではじめてカスバ街路を歩く。添乗員が、ここは迷路になっていて、一行からはぐれるとこの街の外には出られなくなるので、くれぐれも注意して歩くようにと脅かされる。後にこの言葉はタンジェの1日市街で歩く時にもきかされる。道幅が3m~4mと狭く、路面が石畳であるので歩きにくい。路上は紙くず、ビニール袋、ロバの糞で汚らしいことおびただしい。この狭い道を荷を積んだロバと手押車が頻繁に通るので、歩行者は両側の家並、店舗をゆっくり見ることも出来ず通り過ぎなければいけない。狭巷と言ってよい。

 そのような路上でありながら、老人が日本の昔のリンゴ箱の上にタバコの箱を並べて売っている。それもご丁寧に1本1本バラ売りできるようにしているのである。この国では街頭でタバコを吸って歩く人の姿はまずみなかった。さすが戒律の厳しい国と感心したのだが、それだけでなくて、多分タバコの値段が高いせいもあるのではないかと勝手に想像した。この狭い、多少高低のあるくねくねした路上の人通りの多いなかで、私たちツアー一行が歩いていると、必ず若者が絵ハガキと安物のブレスレットを売りに寄ってくる。寄ってくるというより、つきまとうという表現に近いものかも知れない。「3個、1000円 10枚、1000円」と言い買うように身を寄せてくる。この簡単な日本語のフレーズは、モロッコ旅行中いたる所で聞かされた。しかし、うるさいと感じるが、強制されると言う感じをさせない程度なので我慢するしかない。

 モロッコでは、東の果ての遠い日本国から来る観光客は皆んな金持と思っている。日常は慎ましい生活をしてお金をためモロッコへ来ているとは決して想像しない、とガイドが説明していた。従って、日本人には「物を売り付けて買ってもらうのが当然と思っている 。

 また、モロッコに観光で行く日本人が最近多くなり、実際土産物を沢山買う人がいるのであろう。このカスバでは、30分足らずの短い見学であったが、あまりにも猥雑で汚らしい雰囲気の街路なので、歌謡曲「カスバの女」の詞とはほど遠い印象であった。それとも、夜のカスバは、詞にあるように、庶民的情緒をもち、哀愁を漂わせる違った顔をみせるのであろうか。

 翌朝5時すぎに起きて、つれあいと二人でまだ人通りの少ないホテル周辺を散歩する。偶然にも公設市場らしきものを見つけ入って行く。早朝なので果物、魚介類など豊富な品物を店頭や棚に整えている店の様子がみられ、皆忙しそうに働いている。そのなかの一軒の花屋さんの前に立ち眺めていると父子が働いており、若くて格好いい息子さんが私の連を見て、つれあいにバラの花を一本にっこり笑ってくれるではないか。

 私は、さっそく若者とバラを手にしたつれあいの写真を1枚撮った。今日は朝から縁起のいい旅行日になりそうな予感を抱き嬉しくなった。

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『みちしるべ』ニュージーランド旅行印象記(2)**<2006.5. Vol.41>

2006年05月04日 | 藤井新造

ニュージーランド旅行印象記(2)
――羊と牛と馬、そして牧草の国――

芦屋市 藤井新造

アカロア湾クルーズでイルカの泳ぎをみる

 三日目は、マウントクック一日観光とアカロア湾のクルーズ行きに分かれて別行動をとる。前者は朝6時過ぎに出発し、片道331kmの時間を要し夕方7時にホテルに帰着するとあって、私はこの方は遠慮して、柳田夫妻とアカロア行きを選択。こちらは2時間もあれば途中昼食時間も十分あり、アカロア湾に着くのでゆったりしたものだ。そして、日本製の中古のバンに3人だけの乗車なので気軽なドライブコースであった。まだ30代の運転する女性は、日本人でNZでもう既に7~8年住んでいて、この国のこともよく知っていて周辺の風景を色々と説明してくれる。見るものは、羊と牛の群、それに馬と自然の変化する景色だけなので、その単調さをおぎなって饒舌でなくそれていてガイド役を十分してくれた。郊外に入ると一戸建の新しい家が目につく。女性運転手によると、今NZではバブル経済なのでこうして次から次ぎへと郊外ヘと住宅が広がっていっていると言った。その間、中古の家があったがこれもどこかで見た建物によく似ている。

 モスクワから東にかけて12~18世紀のロシア正教会の古い寺院が点在する「黄金の環」に行く途中に見たものである。どちらも土地が広いので庭があり殆ど平屋である。真正面から見ると、家の中央の居間と思える部分が突き出て、両サイドが同じ位の長さでヘこんで凸型の家である。ロシアではいかにも古びた一戸建に見えたが、ここでは中古と言っても見かけはスマートな家である。昼食は山の中腹の小さい自家製のチーズを作っているレストランに案内してくれる。店は古い建物で客は店内で男性二人。二人はカウンターの椅子に腰掛け、一人は椅子に座って二人ともピールを飲んでいた。質素な建物であるが、L字型の室内は空間は広く落ち着いた田舎風の店であった。料理は野菜が大盛りで羊肉は半分位しか食べられなかった。ここで申し訳ない程度の小さいチーズを買い、今でも冷蔵庫に残っている。

 昼食後、30分足らずでアカロア湾に着く。女性ドライバーよリアカロアの地名の由来を聞いたがすっかり忘れてしまった。クルーズ船は50~60人位乗れる大きさでほぼ満員、アカロア湾を時計の針のようにな回りで巡航する。乗船者に日本人らしい人を見なかったが、英語圏の人々が多い感じである。20分も運航すると、イルカの一種であるヘクターズ・ドルフィンが海面に浮いたり、海中に沈んだりしてたわむれているのが見えた。

 この見学に船は移動し、ドルフィンの泳ぎを見せるのがこのクルーズ船の売りものの一つらしい。その間、他の船では男女4人が海中にダイプし、ドルフィンを近くに見られる光景に接した。そちらは少し豪華なコースと思えるが、お金だけでなく若さと健康さも必要のようだ。

 アカロア湾一周と言っても2時間も要し、周辺の半島の崖は屹立し火山層の断面がくっきりと見える位の近さを運航する。半島は私の故郷の近くの屋島の高さより大分高そうである。半周した後、北側の崖縁の斜面のところどころで見た白い羊は徳之島の西海岸の崖でもみた山羊のようにぽつんぽつんと点在して見える。

 アカロア湾の左右の半島はイギリスの記録映画『流網』に出てくるアイルランドの西海岸を連想させる。映画では岸面に昆布を敷き地面を作り野菜を植えていて、冬は吹きすさぶ寒風に身を晒していたが、ここはそれより気候が穏やかでやさしい表層の土地のように感じた。右岸に見た羊、岩を抱いているオツトセイに出会うのも珍しくあっと言う間に時が過ぎ、海は何時みても飽きない瞬時の変化を次から次へと見せてくれる。今回で外国でのクルーズは二回目であるが、ブダペストでドナウ河下りの船に乗った時、水は褐色でこれがかの有名な「青きドナウ河」かと嘆息したことがあったが、ここのハーバークルーズは楽しめた。それと湾内の説明は勿論英語であり、それを適宜日本語に訳し解説してくれた女性ドライバーにも感謝。

南島と対極のような北島オークランド

 4日目はクライストチャーチからオークランドヘ飛行機にて移動。オークランドの初日はバスの車窓より市街地を見学する。その後、地上328mのタワービルの展望台(186m)より市内を見渡す。現地ガイドの説明によると北側に位置するワイデマタ・ハーバーには2千隻以上のヨットが係習しており、港の拡大には日本企業が建設に関与したという。その後はオークランド博物館へ。ここで再びマオリ文化の遺産、NZの歴史博物を展示した品々を見学。この館で第二次世界大戦に出兵し戦死した人々の墓碑銘を刻んだ鋼板があり、心を痛めたが日本の零戦機と等比のものを置いていたのはちょっと意外であった。しかし、第二次世界大戦にまつわる戦闘器具の展示、戦争による被害についてビデオが多く流されており、この国からも多くの戦死者をだしたことを後世に伝えるためにドイツ兵器と共に展示されていることも、私なりには納得したが、他の被侵略国ではどのように受け止めているのであろうかも知りたい。

 オークランドはクライストチャーチと違い中心街は大阪市の繁華街を歩いている感じである。高層ビルが近年多く建ちNZはパブル経済の真っ最中ですと昨日女性ドライバーが言っていたのを思いだした。夕食は全員8人で海岸べりの店へ揃って行く。今夜が全員揃っての最後の夕食である。夕方になり薄暗い室内のなかテープルにローソクの灯をつけ、どことなく庶民的雰囲気が漂う店である。少ない店員が客と客の間を走るように行き注文をとり又配る様子であるが、騒々しさを感じさせない。

 私は一人で席を起ち、海岸に出て小船の出入りする暗い海を少し眺めていて、どことも変わらない港町の潮風に接してちょっぴり感傷にひたった。

 最終日はオークランド観光のこれまた目玉商品の一つであるワイトモ鍾乳洞に生息する土ホタルの見学。鐘乳洞に関しては、秋芳洞に何回か行っているし、東北でも見ているので珍しく感じなかったが、土ホタルが光を放つ洞くつを見学したのは初めてであり、何となく神秘を感じさせた。事前に「ここは文化遺産なので話し声を出さないで下さい」と注意された。暗い洞くつのなか小船に乗せられ女性らしき船頭(?)が、両手で船上のロープを操ってゆっくり移動し、無数の土ホタルが(青白い光)を放つのが見えた。でも案内書で書いている(青白い光)の青より白い光の方が強かったと思う。ガイドさんの説明によると、天丼の壁に張り付いているホタルの子供のお尻から発光していると言っていたが、自然科学の知識皆無の私にとっては、残念ながらそうですかと理解するしかできない。時間にすればわずか数分間と短い観察であったが印象に残る場所であった。この日は間歇温泉で有名らしいロトルアまで車は移動し、ここでもマオリ文化を伝承する施設と、羊の毛刈りの実演など見学し、車中での昼食とバスでの長距離走行を経験。アカロア湾のクルーズと違いこの日は多くの日本人に出会った。なかにはロトルア温泉に宿泊する日本の若いカップルがいたことを思えば、NZは日本から遠くても日本人がよく旅行する国かも知れない。10月31日より11月6日まで7日間のまあざっとしたおおまかな旅行記であるが、今までの海外旅行より短い日数でありながら楽しみの多い日々であった。

 特に南島のクライストチャーチの街は歴史が浅いせいか、中心街でも清潔さを感じさせた。街に広告らしきものは一切ないし、自販機もなくコンピニ店を見たのは1軒のみであった。商店街にバチンコ、ゲームセンターらしきものも見当たらず、但しカジノ店が二日目の夕食したレストランの前にあったが、賭博場があるのが不思議位に感した。それとタバコ店が見当たらない。勿論タバコを吸って歩いている人はいない。どこの国でもそうであるように(日本以外は)ホテル、レストラン等の公共施設はどこも禁煙である。次に、自動車は中古車で日本製のものが多い。それも埃をかぶり、塗装のはげた車が平気で走っている。同じようなことが、イタリアの南部、ロシアでも見られたが、車体の破損した部分を修理せず何かで覆い使用している。NZでは自動車製造工場がないからと聞いたが、それだけでなく国民性の違いをくっきり見せつけられた。粗衣粗食のみならず、万事自分流に生きている見本みたいな国のようだ。

 その他、同行の世話人(山地利明、正本紀通のご両人)の用意周到な事前調査により、夕食毎に羊、鹿、馬、ルーム貝と違った料理を食べる望外の楽しさも味わった。食通でない私でも各々がおいしく味わうことが出来た。

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『みちしるべ』ニュージーラント旅行印象記(1)**<2006.3. Vol.40>

2006年03月05日 | 藤井新造

ニュージーラント旅行印象記(1)
――羊と牛と馬、そして牧草の国――

芦麗市 藤井新造

はじめに言い訳を一つ二つ

 確かこの冊子に、ロシア旅行でサンクト・ベテルプルグに関する短い印象記を書いた。内容は主としてドストエフスキー記念館に入館出来なかった事情の文章である。もっと書きたいことはたくさんあったが省いた。

 例えばドストエフスキーの小説『罪と罰』に登場する牧車工場を車窓から銚めたこと、「夏の宮殿」「黄金の環」の寺院などの見学についてはあまりにも有名なので意識的に省いたのだ。

 しかし、私の拙い文章を読み、故人の山下五郎医師の奥さんがベテルブルクを訪れた印象記の返信がきた。その印象記を読み、私の文章表現のつたなさをつくづく思い知らされた。また、他の冊子に『モーターサイクル・ダイアリー』の映画批評を書き、この映画について神崎正則さんより、公表されていない彼の映画批評を見せられ、これも又不適格な批評であり、私の独断的な文章が不十分な紹介に終わっていることを知ることになった。以上の二つにより、文章表現についてかなりの自信をなくし、ポクシングで言うブロウバンチを喰った。そのようなこともあり、とりあえず時間的余裕をもって書くことだけは心がけるようにした。そして今回も短いNZ旅行記を書くことになった。

マイセレクトによるNZ旅行の経験

 今回NZ旅行に誘われ同行したのは柳田歓次さんの文章を読みその気になったからである。この人による「住居や社会保障の水準は日本より上」(注あり)と「ニュージーランドの規制緩和――協同組合の視点でその問題点を探る――」によるが、後者については(NZ社会保障史の点描)、(主な行政改革と規制緩和)、(市場原理の小さな成功と大きな失敗)と、10年前の文章でありながら、NZの歴史(政治・経済)をコンパクトにまとめ的確に表現されているので、他の本は読まなくてもあとはガイドプックにより事前の知識を少し知って行ったらいいだろうと安直に考え出発した。

 そのような不届きの私であったが、NZ旅行を経験したことにより、もう一つの違った国の社会の表層だけでも見学できた幸せを味わった。

 私事になるが、最近国内外で「死ぬまでにしておきたい」との題名に近い映画が2本上映されたが、私もポーランドのワルシャワ市とクラクウのアウシュビッツ収容所の見学について、是非身体が元気なうちに行くことを決めていた。一昨年の6月にそのことが実現し短いポーランド滞在記を書こうと帰国すると結婚したばかりの三男のつれあいが脳腫瘍発生がわかり大学病院に入院、開頭手術3回執行、意識不明のまま7月に亡くなるという不幸にあい、短い文章も書けなかった。幸せは突然訪れないが、不幸は思いもかけず訪れてくることを身をもって実感した。それはそれとして、前述の柳田さんの文章は誰しもが自然に読めゆるみのない文体であるが、私は例によって私見による短い印象記であることを断っておく。

 今回のツアーは一行8人で最小人員のマイセレクトツアーを組むことができた。自由時間を多くとれるので、各自の意見を出しあって、8人のなかでもオプションについて別行動を選択することが可能になった。私は特別に希望する場所などなく、博物館か美術館見学を一つ入れてもらい、パブで夕方からゆっくりビールなりワインを飲み、その土地の風景を眺め時の流れを楽しむということと、あとはフリーマーケットを歩きその土地の物産を見て廻れたらと言う無精者の見本みたいな性格なので、観光する箇所は他の人に同行することに決めた。

ガーデンシティの街 クライストチャーチ

 先ず一日目は、クライストチャーチの直行便が取れず、一度オークランドに着き飛行機を乗り換えたので、到着日の観光時間が少なく8人で大型パス専用車で主要な箇所を案内してくれた。最初は南ハグレー公園を散策した。女性ガイドによると東京ドームの26倍の広さと言う。クライストチャーチの街全体がガーデンシティと言われるだけあって、木々と花々が多い。季節は冬から春に移っているので花々が多いと思ったが、もう既に花季節は過ぎているようだ。ガイドによると、つい10日前に桜の花が散ったところですと言われ少し驚いた。木々、それも大木が多く、その中にエイボ川の水がゆっくり流れ水底の水草がたわむれ泳いでいるように見えた。川底は浅く、川幅も10m足らずなのでカヌーで漕いで楽しんでいた若者もいた。花の名前については我が家のベランダの植本鉢の花の名前も知らないので、同行のご婦人が「あれが石楠花、あれが……」と言って説明してくれるが、私はただ頷くだけで情けない。このあとは車窓からの名所案内が有り、翌日が自由行動とあってそのため地図を見ながら参考にしガイドの説明を聞く。街の中心には、西洋によくある大聖堂があり、街を歩く方向の目安になり、広場はフリーマーケットになっている。と言ってもイタリア、スベインで見た大聖堂と比較すると、高さ63rnの尖塔で小さい建物である。どこかで観た風景である。一昨年のポーランド旅行中のクラクウの中心街を思い出した。しかし、クラクウのきらびやかな色彩の建造物と違い、ここでは人通りが少ないせいか建物の色彩も地味で落ち着いた雰囲気をかもしだしてもる。

 二日目は大聖堂に入館し、異教徒の私であるが、ここでも一礼をする。聖堂内はどの国も同じく色鮮やかなステンドグラスを壁の内部にうめこみ装飾している。このあとアートギャラリー、カンタベリー博物館を見学、博物館は主として先住民族マオリの歴史博物館であり、英語の説明書きなのでもう一つ理解するのが困難であったが、まあまあ勝手に想像して解釈して見学を終わる。そして先住民族マオリ族の文化、生活史をちょっぴり理解できた。後にオークランド博物館の展示物に比べると小さい規模とわかったが、先住民族の歴史を大切に展示しているこの国の方針が窺えてよかった。

 このあと全員でクライストチャーチの中心街を一周するトラムに乗る。一周するのに20分余ではあるが、観光用も兼ねているようで、運転手は周辺の建物で有名らしきものを大きい声で説明しながら操縦する。しかも客が乗り降りの度に合図の大きい音をたて、それが何ともユーモラスな雰囲気をかもしだす。オーストリアのトラムと比べ賑やかなことこの上なし。大声で早口で、しかも英語なのでこちらは全然理解出来ないが、もし解ればずいぶん楽しいだろうと思えた。話はオーストリアのトラムに飛ぶが、ウイーンの国立美術史芸術館に行くため乗車したが、中心街を半周するコースであった。ここは街が小さいせいか一周してくれる。ウイーンでのトラム乗車中、私の席の前に座っている老齢の見知らぬ婦人から英語で話かけられて困った。彼女から話かけてくる言葉でわかったのは、東京で何年か住んでいたこと、京都見学をしたこと位であった。それ位しか理解出来ない英語力の私に、次から次へと会話を続けてくれる。途中で老婦人が降車してほっとした経験がある。今回は英会議に堪能な柳日さんがいるのでその点では一安心であった。

 久じぶりのトラム乗車の快感を少し味わい、ホテルに近いエボン川を前にしたパブで柳田、正木のご両人と私はビールを飲む。ご両人の婦人はショッピング街に向かう。パプでの飲食は一昨年のウイーン国立オペラ座の近く以来一年半ぶりである。何となく気持ちがたかぶり、前年末に右肩骨折をした疼痛を忘れさせてくれ、きらきらと夕日に輝く水面をしばしばうっと眺めていた。

 その前年にはヘルシンキの中央駅からごく近くのバプは、ちょうど仕事を終えたと見える若者、中年が続々とやってきてたくさんの椅子をたちどころに占領し腰掛けている中で飲んだ。その時ビールを飲みながら、通りを歩くフィンランドの女性の透き通るような顔と腕の肌の白に驚いたのであった。

続く

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『みちしるべ』戦後60年の暑い夏のなか「ヤマザキ!天皇を撃て!」を読む**<2005.11. Vol.38>

2006年01月13日 | 藤井新造

戦後60年の暑い夏のなか「ヤマザキ!天皇を撃て!」を読む

芦屋市 藤井新造

戦争を知らんなんて言わないで戦争だらけの世界じゃないの

成田勉

 この夏は暑さのせいか外出するのが億劫になり、7月末から9月初めにかけて図書館へ行き本を借りて自宅で読むことにした。勿論図書館で読んでみて面白い本を借りてくる場合もあり、最初から読みたい本を借りに行く場合もある。大きい図書館(分館でなく)に行く場合は車で行く場合が多い。(大抵は健康のため歩くが)その時に沢山本を借りすぎて困る。と言うのはこの町の図書館は、いつのまにか貸し出す本の冊数を制限しなくなった。返却期限については他市と同じであるが、どうしても多くの本を借りたくなる。それでついつい借りる本の冊数が増える。それと今まで借りたい本を自分で探していたが、この頃はどこでも職員がパソコンで検索してくれ便利になった。そうすると乱読の私の読書癖を一層増長させる。

 そこでこの夏は、例年のように原爆関係の太田洋子の『屍の町』『夕凪の街と人』原民喜の『夏の花』他短編集、話題になった『国家の罠』(佐藤優著)『真珠湾の日』(半藤一利著)、それからこの6月、奥崎謙三の訃報を新聞で知り、彼の本を読み返した。読書して面白かったのは文句なく『国家の罠』であった。既にこの本については詳細な書評もでて話題を呼び、図書館での利用に2ヵ月近く要したのをみても多くの人が読んでもる筈である。この本については外交官としての佐藤優がロシア外交を鈴木宗男議員と共に展開していたその過程と目的がよく解るように書かれている。政治家と官僚がどのように外交を進めているのか一つの見本であろう。この本とは別に、奥崎の『ヤマザキ!天皇を撃て!』を読み返し時宣にかなった一番の作品でないかと思った。彼を有名にしたのは、1967年1月2日、天皇が新年の宮中行事で皇居のバルコニーに現れた時、パチンコ玉を群衆の頭越しに20数メートル離れた天皇に向けて撃ち逮捕されたことである。当時の私は新聞の短い記事を読み、たいした関心を示していなかった。しかし、彼の本を読み、映画『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督/1987年作)を観て、何故彼が天皇に向けてバチンコ玉を撃ったかを知ることができた。

ニューギニアでの死の行軍を経験する

 彼は小学校卒業以後、手に技術をつけ家計を助けるため工員として働くが、どうせ徴兵制のため一度は兵隊に招集さねるなら早めにと思い、1941年に初年兵として中支工兵隊に入る。その後1943年、独立36連隊の要員として上海近郊へ出発、そしてフィリッピンのマニラに着き、ニューギニア島にて戦線に参加する。彼の本では、彼が戦地に着いた時、既に米軍の圧倒的軍事力により、毎日が「爆撃、銃撃、雨、泥、飢餓、疲労」の死の行軍であり、敗走する日本兵士の痛ましい日々を詳細に綴ってしる。(「文芸春秋」10月号で、俳優池辺良も同様のことを書いている。)

 彼自身、銃弾による右大腿部貫通と右手小指切断を受けながらも「飢餓」と「銃撃」から己を守るための行動力にもすさまじいものがある。そのあたりを彼は記憶を呼び戻し詳細をきわめ書き記している。多くの戦友の死に接し、戦線で孤立した彼は体力の限界に達し、敗残兵として死に場所を求め日本に近い海へ出ようとする。しかしそれもならず餓死するより銃殺による「死」を選び、米軍のいるへ舞い戻り捕虜の身になる。(多くの人は『野火』大岡昇平著を想像するだろう)

 ここで米軍の思いにも及ばない待遇(傷の治療、タバコ、チョコレート、キャンディの支給)を受け、彼は「日本に生まねて24年間に両親以外の日本人から、この敵の衛生兵から受けたような親切を受けた記憶がなかったので、大きな感銘を受けました」と、率直な喜ぴを表している。

 それから一年半、オーストラリアで日本兵の捕虜収容所での生活を送る。1946年3月、五年ぶりの日本への帰還が適い、帰国後自分の父の死を見守り「ニューギニアで行動した若い戦友たちは、深い密林のあちこちで、父母や兄弟や愛する人を恋いつつ、人知れず無惨な餓死をとげ、例外なく醜くふくれあがり、山豚や気味悪い虫の餌食となった」戦死者を思いだし、彼の心の中に天皇制批判」の思想が構築されていく。そのような彼の戦争体験を知ることなく、俗に言う「皇居バチンコ事件」を理解することは困難であろう。

天皇の戦争責任を問いつづけた奥綺

 「おい、山崎!山崎!天皇をピストルで撃て!」と亡くなった戦友の名を大声で叫び、バチンコ玉を、天皇に向けて撃った。

 勿論、天皇に傷害があった訳でない。被害は「ベランダ外面ブロンズ製鼻かくし部と、ブロンズ製出桁の部に各1個の打撃痕(凹損)を生ぜしめた」だけで、検察庁は被害者を特定できず、証拠として彼が作ったゴム製投射器具とバチンコ玉を没収したのみである。検察庁は、この事件を「加害者はパラノイア(偏執病)で自己主張を強く貫こうとする傾向があるものであるところから、かねて《天皇制は人間性に反した存在である》と独自の見解を固執し」その延長線で上記の行為に至ったと断定した。

 そして東京地裁も、彼を精神鑑定にかけ1年10月の長期拘留する行為に出た。続いて裁判所では、被害者(天皇一族)から一人の証人も出廷せず、一方的に1年6月の懲役を彼に言い渡し、彼もその刑に服することになった。かくして曾て柔順な「皇軍」として戦地におもむき、九死に一生を得て帰った彼の行為を精神異常者として、世にアッピールすることに司法権力は成功した。しかし、彼はそれに屈する事なく 1977年に参議院選挙に《天皇の戦争責任》を問うスローガンを掲げ立候補し落選するが、13万票余を獲得している。

 その後も彼は、暴力行為を伴った過激とも思える言動により、ニューギニア戦地で上官たちの卑劣で残酷な《部下の人肉喰い事件》の真相を追い詰め白状させるドキュメント映画『ゆきゆきて神軍』により、天皇の戦争責任を再度訴える行動に出る。

 愚直、それとも破天荒、いや直情的であった彼が一貫して天皇制批判」の行動力を持続させたエネルギー源をこの本から窺える。

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『みちしるべ』松山市立子規記念博物館を訪ねて**<2005.5. Vol.35>

2006年01月13日 | 藤井新造

松山市立子規記念博物館を訪ねて

芦屋市 藤井新造

瓶にさす藤の花ふさみじかければ
        たたみの上にとどかざりけり   正岡子規

先ず山頭火の一草庵とロシア人墓地を見学

 昨年2月末から3月始めにかけて、まだ春がやってこない雪深い冬に、斎藤茂吉が生まれた山形県の上山市にある斎藤茂吉記念館へ行った。今年も偶然に、2月末に松山市立子規記念博物館へ行った。松山市へは、仕事とか家族、職員旅行で3回行けども道後温泉に泊まるだけで時間がなくて松山城と内子町の内子座を見学するのみで、子規記念館には入館していなかった。

 今回は西条市に在住するA氏からの誘いがあり、友人のY君とこれまた香川県に居る従兄弟のT君が、高松市より車で案内するとの有難い申し入れを受け出かけることになった。松山市は冬でも山形と違い、少しは暖かいだろうと予想していたが、その希望的観測は見事にはずれた。

 高速道路で西条市を過ぎて20分もすると猛烈な吹雪が車のフロントガラスをたたく。石鎚山系の山々の山頂に白い雪が積もっていたが、まさか、このような激しい雪が降るとは意外であった。知己の4人での楽しい旅を想像していたが、初日から吹雪のお迎かと少々がっかりしていたが、松山市に着くと雪はやみ、私の気持が和んできた。

 従兄弟の話によると、この季節には東予市から北条市にかけて雪が多く、車のタイヤがすべらないように、道路に石灰を撒くという。

 道後温泉のホテルに到着した時刻が午後4時前であり、松山市で大学生活を送ったA氏は、今回は時間が少ないので、種田山頭火が住んでいた一草庵とロシア人の外人墓地にしようとの提案があり、それに従いタクシーを拾う。幸い地元の女性タクシー運転手が道をよく知っており、要領よく一草庵近くまで乗せてくれた。

 私は、山頭火についての知識は新聞で読んだ位のもので尾崎方哉と共に定型俳旬ではなく自由俳句の作り手で、一時山頭火ブームが起こり、その頃本屋で豪華装丁本を立ち読みして得た位のものである。

 俳句として「どうしようもないわたしが歩いている」「歩きつづける彼岸花咲きつづける」「この道しかない春の雪ふる」「酔うてこほろぎしっしように寝ていたよ」など有名らしい。(『母を訪ねて山頭火』松原泰道著)

 この一草庵は、彼が全国を放浪した末、この家で死んだのかと想いをはせ、ゆっくり周囲を廻ってみる。家と言っても10坪の土地に平屋の木造建ての小さい家で、2間あり外から窺ってみると、家の内は何もない質素と言うより粗末な居宅の印象を受けた。翌日見学した子規を讃える記念館と比較すれば、天と地程の差異がある。先程の運転手さんによると、この一草庵を訪れる人は先ずいないと言っていたが、それも額けた。

 土地の入口の脇に「鉄鉢の中に霰」「春風の鉢の子一つ」と二つの句碑が建っていたので、一草庵を守りしている人が誰かいるのかとまたも女性運転手さんに聞いてみたが、確かな答はなかった。

 その次にロシア人の墓地に行く。日露戦争により捕虜になったロシア将兵約6000余人が、この地で収容されそのうち98人が亡くなっている。亡くなった一人一人の墓に供花がありきれいに整地されていた。俘虜されたロシア人に対し、日本の政府がどのように処遇していたのか知らないが、この墓地は近くの婦人会の人々がポランティアーで清掃し維持されていると運転手さんから聞くと、土地の人々に何となく人への優しさとあたたかみを感じさせた。ここへは観光客らしき若い男女が何人か来ていたので、有名な所かもしれない。

 このような土地として、北海道のオホーツク海に面した東部に、沈没した船(ロシア船だったとの記憶があるが)の船乗者を救助し、水死した人の慰霊碑を建立したのを見たことがある。そのことも併せて思いだし、日本人にも時代と土地によってこのような立派な行いをする人がいるものだと妙に感心をした。この外人墓地から市街に入りタクシーを降りて路面電車に何十年振りかに乗り、車輪がレールに軋むあのなつかしい音を聞いた。この前も同じく四国の高知市電での乗車だったのだ。夏目漱石は、小説『坊ちゃん』で「乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三錢である」と書いていた電車は、100年前だから勿論型も異なり、運賃も安かったのであろう。

子規記念館で夏目漱石の「坊ちゃん」の原稿を見る

 翌日は同行の二人と一緒に子規記念博物館に行った。玄関は、子規の歌碑「足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺にあらませば」がホトトギスの彫像と共に建っている。1981年に建てられたこの博物館は一言で云えば中途半端な建物でなく「外観の色彩はアイボリーを基調とし、屋根には銅版を使用し『蔵』をイメージ」していると言う。館内の展示も、市立の建物であるが故か「道後松山の歴史」、「子規とその時代」「子規のめざした五界」とそのテーマも雄大で題名にふさわしい充実した内容であった。昨年訪れた茂古記念館が主として、個人の寄付により建てられた経緯と異なり、子規のものは観光の目玉商品の一つとして作られたものかも知れないが、市立子規記念博物館の名称にふさわしい展示品ばかりであった。

 私は数年前に子規の『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』の3冊をよく読んだ。この3冊は服のポケットに入る位の大きさなので、電車に乗っている間に読むため携帯しやすいせいであったからだ。子規の後輩高浜虚子を知るため「高浜虚子』(富士正晴著)『花衣ぬぐやまとわる……』(田辺聖子著)を読んでいるが、子規に関する本は読んでいない。尚、虚子については孫娘でホトトギスの主宰者である稲畑汀子さんが、自分で金を出し芦屋の海辺近くに虚子記念館を設立した。私の家からは徒歩40分かかるが、同じ市内なので見学に行こうと思いながらも実現していない。

 話は子規に戻るが、子規の短歌、それも冒頭のものは教科書で読みそれ以来何となく子規の人物に興味を覚えていた。短歌も俳句も作れない私であるが、子規に親しみを感じるのは、短詩形の作品もさることながら、彼の随筆が結構面白いのである。その面白さは、私流に解釈すれば批判する対象(作品、人物)について気にせず『墨汁一滴』などで言いたいことをずばりずばりと指摘しているからであろうか。それと誰しも触れているように病床にありながらあれだけの作品を残しているせいか、『病牀六尺』のなかで「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と呻吟しながら記述している彼の姿は痛々しい。「膿の出る口は次第にふえる。寝返りは次第にむつかしくなる。……歯茎から膿は右の方へ左の方も少しも衰へぬ。毎日幾度となく綿で拭い取るのであるが体の弱っている日は十分に取らずに捨てて置くこともある」と言い、目が痛んで黒眼鏡をかけ少しの間新聞を読む。字を読むことで少しでも痛さから逃れようとしている。その病状は日々に悪化し「この日始めて腹部の穴を見て驚く 穴といふは小さき穴と思ひしにがらんどなり、心持悪くなりて泣く」(明治35年3月10日午前10時記)となると痛々さを通りこし、拷問に近い状態ではなかろうかと思える程である。この年の9月18日の辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」を残して亡くなっている。有名な三句は、子規堂にも色紙で掲げていた。

 この館で私ははじめて夏目漱石の『坊ちやん』の生原稿を見た。よく知られているように、子規と漱石は松山市で一時同居してもたことがある程親交は深く、そのせいで漱石の原稿が出展されたのであろうか。

 漱石はまろやかで整った字を書いている。まるみではなく、あたたかみのある字体である。これまで、私は金沢歴史資料館、姫路文学館その他で多くの作家の字体を見ている。特に、故矢野笹雄さんの遺稿集に一文を寄せてくれた野間宏の字体は、土地を耕すかのように字が跳ねあがり躍動していて力強い印象を受けたことがある。

 それに比し漱石は一時神経失調に悩まされたと言われるが、字は端正である。子規の字体は幼少より習字をしており読みやすいが、彼は見たり、聞いたりしたものを次から次へと書いているので、ある種の乱暴さがある。そうであるが、子規のその時その時の感情が滲み出て、こちらに伝わってくるようで、これはこれで趣きがあって面白い。

 子規記念館で特別に新しい発見はなかったが、どうしても一度来館したかった長年の夢がかない、同行の二人に感謝したくなった。尚、この時は少し時間があり、四国霊場51番札所で有名な石手寺を拝観した。境内ではイラク戦争での死者を弔う追悼の檄文があり、戦争反対の大きい垂れ幕があったのにはびっくりした。キリストの教会では、このような掲示物を時に見るが、寺院でははじめての経験である。

 9年前に、小説『安曇野』(臼井吉見著)を読み一人で荻原緑山記念館(穂高)に行き帰途福井県の丸山町で降り、中野重治の生家跡を訪れたが、このように一人よりも心をゆるせる友人との旅も楽しみが多い。思い出したが、小樽市へ旅をした時も、つれあいと小林多喜二の石碑が建っている山へ登った。又、宮沢賢治生誕100年祭の年も花巻市に行っている。日本人は祭りが好きだと言うが、私も祭好きで、人から誘われるとすぐ何処かへ行きたくなる。そして「晴れわたる日には とりわけ行きさきを決めないままに出てゆきたくて」(小林久美子)のように出かける気まぐれな性質がある。困った性格の人間である。

編者(S画伯)注歯茎の茎という字には旧字が使われているが、現行の茎を使用した。

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『みちしるべ』私の阪神・淡路大震災10年目の1月17日**<2005.3. Vol.34>

2006年01月12日 | 藤井新造

私の阪神・淡路大震災10年目の1月17日

芦屋市 藤井新造

ずたずたの大地に我ら去年今年  長谷川 櫂

 私事になり恐縮であるが、昨年11月末右肩大結節骨折、12月中旬修復手術を行い、まだ右肩を少しでも動かせば疼痛が走る身体なので震災特集をテレビで見ていた。しかしどうしても震災時の死者への祈りに行かねばとの衝動にかられ、午後1時過ぎに自宅を出て先ず「芦屋市祈りと誓い」の献花場所がある芦屋公園になり向かう。外は小雨が降り六甲山頂は雪で白くなっている 。歩く途中、六甲全山が雪雲に覆われて裾野しか見えなくなる。天候の不順さをまのあたりにする。

 芦屋市役所の東側の歩道より南へ43号線を渡り行くと4、5分もすると献花場所がみつかる。受付にテントを一つ張って市の職員数人が暖房もとらず立っている。机の上には献花の蘭の花が並べられていた。職員より記帳をうながされ名前を書く。そして蘭の花一本をとり捧げる。私は祈る言葉を用意してなくただ黙祈するのみであった。献花する祈念碑には「震災に耐ヘし芦屋の松涼し」(稲畑汀子)の俳句があり、確か何回かこの近くを歩いている。その時、虚子の孫で高名な稲畑さんのこの句の意味を考えたことがある。この小さい街のなかで444名の震災による死者がでた。その人達への追悼の句としてどう理解すればいいのか。俳句に素人の私は「……芦屋の松涼し」は芦屋市が震災から復興する姿を詠んだのか、それとも震災の被害にもめげず凛として姿を崩さなかった松の木を何らかの象徴として詠んだものか、そのあたりの内容がよく分からないのだ。何となく、この句はこの場所ではそれなりの落ち着きがあっても献花の場所としてはいかがなものかと疑問に思えた。まあこの日行政の方でルナ・ホールで「芦屋市犠牲者追悼式」が屋内であり、屋外としてはこの場所以外相応しい所がないのかも知れないと一人合点し、次の目的地の津知町公園へと向う。

 この時小雨はやんでいたが、相変わらず六甲山に雪雲が横たわり、冷えた身体を少し暖めるため市庁舎に入り待合室で休憩する。暫くして庁舎を出て公光橋を渡り津知町に行く時、突然の如く陽が射し一瞬周辺が明るくなったが又空は雪雲へと戻る。先ず川西町より津知町を歩くが、ここ川西町も新築の家も多いがいまだに更地になったままの空地もある。目的地の津知町公園へは地図も見ず、およその見当をつけて歩くがなかなか見つからない。仕方なく町内をあっちこっちうろつくが、幸いにも日吉神社の近くに石板の地図があり公園にたどりつく。公園の北西に位置してそれとわかる「絆」と彫り込んだモニュメントがあり、その前に献花が数束おいてあり、地面には食卓台の広さにビニールで四方を被い20本位のローソク立てを作っていた。その横に焼香台が二つあり、私は一本の線香に火をつけ芦屋公園でしたと同じく合掌して祈った。私が行った時は誰もいず、自治会による設営と聞いていたが如何にもつつましく死者を弔うのにふさわしい落ち着いた雰囲気が伝わってきた。この津知町だけでも56名の震災による死者を数えた

 それから10年が経ったのだ。私は公園のベンチに腰かけ、わが家でも震災時より2週間給水がなく、ガスがこなかったつらくて苦しかった生活を想い出した。当日、飲料水は東大阪市に住む三男の友人がポリタンクニ個分バイクで運んでくれ当座をしのしだ 。洗濯物は箕面市に住む義妹に依頼し、西宮北口まで運び、干し上がった物を又そこまで届けてもらい受け取った。あまり感謝しない私もこの時ばかりは義妹の好意を本当に有り難く思った。そして80才過ぎた義母の入浴のため日曜ごと合計3回、三田市と宝塚市へ車で一日がかりで出かけた。途中義母が気分を悪くし、三田市商工会議所の便宣で小さい部屋を借り休憩したこともあった。水洗便所に流す水は夜間に子供たちと芦屋川へ何回か汲みに行った。幸いに我家の被害は震災による被害貸付制度の範囲で助かったが、2軒隣の2戸は全壊に近く人が住めなくなった。しかし、これまで60年間生きて仕事をし生活する上で、これほど気持の上で余裕のない緊張した日々を過ごしたのは初めてである。それとこんなこともあった。震災直後思いもかけず子供たちが3軒隣の独居老人の安否を確認に行ったととである。日頃そのようなことに無頓着な子供と想像していたので、その行為には驚いた。今から考えれば、我家に老人がおり咄嗟に頭に浮かんできたのであろう。私には意外なことに見えた。そのようなおおまかな出来事を追想していたが、やがて当日の朝地震があった時間がよみがえってきた。

 余震の度にびくついていたが勤務先が医療機関という業種から職場のことも気になって仕方ない。いつもより2時間遅れて自宅を出て阪急芦屋川駅に着いたのは9時ごろである。駅員は誰もいず、ホームに上がると東の端の方は傾いて一部崩れており線路のレールが曲がっている。これでは電車も動くまいと仕方なく階段を降り、駅の公衆電話の場所に行くと何十人もの人が順番待ちで並んでいる。いらいらしながら待つ。そして職場へ連絡をとり、今日はとりあへず家族のことも心配なので欠勤の旨を告げる。薬棚もこわれ職場のある尼崎市も大変であったが、診療は続けられそうというので安心する。

 この日は誰しも経験したように、余震の度に精神と肉体がピリピリと反応し、散乱した家具類をかたづける気も起こらず、安全な場所を確保して、全員毛布にくるまって過ごした。翌日の出勤は大阪~西宮北口間は電車が動いているというので自宅よりそこまで歩く。途中線路の側道より線路上を歩いている大勢の人をみて、親王塚町あたりから私も線路上を歩くことにした。震災二日目なのに神戸方面より大勢の人が列をなし、リュックを背負って歩いている。子供連れの家族もたくさん歩いている。その一人に神戸の様子を聞くと、建物の大半は崩壊しその下敷きになり、又火災により死者が多くでていることを聞く。これは大変な災害が発生していることだと知る。夙川駅付近では線路のレールが側道にはみ出てぶらさがりっており、鉄筋コンクリートの五階建てのビルが線路側に傾いて辛うして立っている感じであった。そして夙川駅より東の方面の木造住宅の家屋の崩壊がひどかった。ここからも線路上を歩く方が近道なので私も列に続いて行く。阪急は3日後には危険なので歩くなと看板を出しフェンスで閉鎖した。徒歩通勤の時間で体力を消耗するので私は何日か職場で泊まった。自宅に飲料水が通じたのが2月2日。ガスの供給が可能になったのは2月28日と私のメモにある。

 今も屋根の雨もりにより天丼の板がどすぐろくなり、少しだけ傾いた家に住んでいるが、家を失った人々を想うと、この日本の国が如何に天災に無力で被災者に無慈悲な国家であることか身をもって知った。夜の「市民=議員立法総括そして(災害基本法)へ」の集会には参加できなかったが、10年へて、あの大震災の経験を私達がどのように活かしきっているのだろうかと想い家に帰り、「被災者は再生したのか」(池田清)「続・権力に迎含する学者たち――知識人の震災責任を問う」(早川和男)共に「世界」2005年4月号を読み、上述したように、この国の在り方をいろいると考えさせられた1日であった。

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『みちしるべ』みちのくの旅 斎藤茂吉記念館へ(3)**<2005.1. Vol.33>

2006年01月12日 | 藤井新造

みちのくの旅 斎藤茂吉記念館へ(3)

芦屋市 藤井新造

 又、茂吉自身自作を朗読した10首のテープを聞くことができた。私は彼が母親の死に際し作った短歌を、自分の母親が死に近い時、口の中で暗唱したことが在る。

 私は茂吉のように母親が死に近づいている時、彼のような歌(首題が同じと言うこと)を一首位でも作れたら自分の心も少しは救われるのでないかと、その時感じた。そしてあまり茂吉を知らない私が彼を羨ましく感じたのである。

 私は母親が私に対する期待感(俗に言う立身出世の類?)を身にしみて感じながら育ったが、それがどうしても私の生き方を縛りそうに受け止め、ともすれば自分の自由な生き方が失われそうになると自覚し、一定の距離を置いて接していた。

 茂吉のように、彼の母親に対するしぼ敬愛をストレートにしかも深い愛情を持って接している歌を読むと、私の心中は複雑であった。私もそうしたかったが母親に対しどうしても茂吉のように率直な気持を表現し接することができなかった。茂吉は違っていた。

 中野重治は前記の「斎藤茂吉・人と作品」で少し長い引用であるが、このあたりをうまく述べている。

 「……そして最後にこういうことを感じた。なんと茂吉が肉身主義者であったことだろう。なんと彼が、全く人間的に、しかしほとんど動物的に祖母にたいする、父にたいする母にたいする、兄弟にたいする肉身の愛を告白したことだろう。彼が職業上からも家にしばられていた。それは全く順当なことである。しかし彼は、同時に、生涯血縁の家にしばられていた。そうして、歌の上での温熱は全くこの方にある」と言いきっている。

 しかし茂吉だけでなく、短歌型の作家には肉親、特に母親を詠んだ歌が多い。

 最近では、角川春樹の獄中記(『俳句』2004年11月号)のなかでの母親を題材にした俳句がそうである。又、坪内稔典の「紅梅の咲くごと散るごと母縮む」「母死んで海の青さよつわぶきよ」「つわぶきは故郷の花、母の花」などの俳句を(「わたしとお母さん」毎日新聞10月29日 )読むと、尚更私の上記の想いを強くしたものである。

 さて、一通り館内をめぐりゆったりとした広さのあるロビーの椅子に座ってガラス越しに蔵王を銚めると、さきほどの車中と同じく山は雪で煙って裾野しか見えない。

 「蔵王山に雪かも降るといひしときはや斑なりというへけらずや」(『赤光』、以下同じ)「雲の中の蔵王の山は今もかもけだもの住まず石あかさ山」、そして蔵王山上歌碑「陸奥をふたわけざまに聳えたまう蔵王の山の雲の中に立つ」蔵王の神々しい全容は、残念ながら垣間見ることさえ出来なかった。この季節には山頂が積雪で覆われていても、蔵王を眺望できるだろうと予想していた私の甘い希望は実現しなかった。

 展示室内は夕方近くであったせいか私たち夫婦以外には一組の中年夫妻らしき見学者しかいなく、館内を何回か自由に歩き廻ることができた。

 私は密かにこの記念館で興味を抱いていた展示品について見たかったことが三つあった。一つは、茂吉が20年近く妻と別居し、この間歌を通してつきあっていた女性(世に公然化されていることであるが)がどのような扱いをうけているかであった。しかし、この件については彼女の小さな写真(A4版位のもの)のみ壁に飾ってあり、二行位の解説文のみで終わっていた。茂吉の展示館であれば、中野重治の言葉を私なりに勝手に借用すると、この女性は茂吉の人生で「確かなある位置を占めていた」筈であるが、どうもそのように思えない展示の仕方であった。まあそれも記念館の意向であれば仕方はないであろうが……。

 もう一つ、戦争中の歌集『霜』『小園』他のなかで戦争賛美の歌を彼は多くつくっている。ある茂吉歌集の解説者の一人は、昭和16~20年の間に3千首以上の歌があると記述した記憶があり、私はこのことについて彼の業績のなかでの位置付けを知りたかったが(展示館でも)それらしい解説はなかった。

 私には、茂吉の生涯における陰の部分(戦争賛美の歌)に意識的に触れられていないように見えたが、記念館とはそのようなものであろうか。

 どうも釈然としない気持を抱き、降りしきる外の雪景色を見ながら館をあとにした。記念館の北東の少し離れた場所に建つ、島木赤彦、伊藤左千夫、茂吉歌碑の上にこんもりと雪がかぶっていた。

 記念館の展示のあり方に多少の違和感を持ったが、この次は夏の季節にここに来て「響えたまう蔵王」をじっくり眺めたくなった。

 そしてこの旅から帰り、中野重治の「斎藤茂吉ノート」をかなり入念に読みかえした。

 この本もまた、茂吉歌集と同じく名著でないかとあらためて思った。

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『みちしるべ』どうしても気になることがある**<2005.7. Vol.36>

2006年01月12日 | 藤井新造

どうしても気になることがある
――路上生活者のこと――

芦屋市 藤井新造

隣の塀が燃ゆるときは汝の物にもかかわりあり
                    
ホラティウス(ローマの詩人)

 昨年のことで旧聞に属するが気になることが一つある。私はこの間(5年間のうち今年の前半を除いて)週に1~2回、尼崎図書館に通っさていた。

 そのコースは芦屋川の左岸を通って、国道2号線の業平橋の下をくぐって阪神電車芦屋駅に行く。そこから尼崎に向かうのが通常のコースである。そうすると、昨年の2月業平橋の下をセメントで工事をしている。工事の必要らしきものを感じていなかった私は不思議に思った。何時もここにホームレスの人が居て、ラジオから音楽が流れていた。それが聞こえてこない。

 たまたま、その日帰宅して保守系のM議員の市政報告を読むと、ホームレスに関する記事を載せていた。この議員が「一昨年(2002年のこと)ホームレスの自立支援特別法が成立し、地方自治体はホームレスの実態調査と自立支援のための様々な施策が義務づけられた。そこで質問するが現在市内に何人のホームレスがいて、どんな支援を行っているのか」と聞き、当局(芦屋市)は「平成15年2月には芦屋川河川敷や公園などで16人のホームレスを把握していた。その後、巡回パトロールによる説得に応じた自主退去や生活保護の適用による救護施設への入所により、11月末で6人に減少した」と答えている。そこで話をもとに戻すと、業平橋下の工事後はどのようになったか。ホームレスの人が寝られないように敷石の突起部分を上にしてセメントで固めているではないか。ここだけではないのか、そうではあるまいと思い公光橋の下を見に行くと、ここでは明らかに突起部分を高くしてホームレスの人が寝られないようにしている。これではホームレスの人の寝場所を奪い、無理矢理に追い立てたと言う方があたっていまいか。

 私とて何も出来ず、具体的な行動を越していないが、彼等の「就労」と「宿泊」については人並みに気にかかることである。それでか当時の神戸新間の記事をメモった用紙がみつかった。その記事では、ホームレスの人数は尼崎市は323人、西宮市は130人。平均年齢56.7才、男性96%。現在の寝場所として公園46%、河川敷32%、道路8%そして路上生活を始めて5年以内の人が72%とある。そのなかで仕事をしている人89%、収入が3万円未満47%、5万円未満が68%。ホームレスに至った経緯は仕事が減ったが24%、家賃が払えなくなった人が14%で、原因として長引く景気の低迷を反映しているとコメントしている。

 そして、きちんと就労して働きたいと思っている人が41%いる。兵庫県は一昨年11月行政機関が民間団体などと「県ホームレス自立支援対策連絡協議会」を設置し、計画案は「居住の確保」「就業機会の確保」などをうたい、具体的支援を進めて行くと明言していた。今1年以上も経ち、ホームレスの人々の「居住の確保」と「就業機会の確保」はどれだけ実現したのであろうか、是非知りたい。

 と言うのは、今回はからずもアメリカでの状況について次の文章を読んだからである。

「……ロスのあるところでは、バスのベンチが樽型なのだそうです。なぜかというと、ホームレスがそこで寝られないようにしている。公園の水道もそこで水を飲んだり、体をふいたりできないようにするためになくしている。それから道路にスプリンクラーがあり、夜、水を流す。そうするとホームレスがびしょびしょになる。そういうことを本当にやっているのです。おそらく日本もそうした殺伐とした国に近づいていくのだろうと思います(『労働情報』673号木下武男著)」

 そういえば、JR立花駅南側の尼崎市バスのベンチの上に、樽型の鉄の環を作っていた。何時頃からであろうか覚えていないが、まさかアメリカのようにホームレスの寝場所を奪うためではなかろうが、真偽を一度たしかめたいと思っている。

 話を冒頭に戻せば、最近業平橋の下を通ると又ラジオの音楽が聞こえてくるようになったので、うっとうしい梅雨空の下、私の気持は晴ればれとした。

※ ホラティウスの言葉はアイザツク・ドイッチャーの著作からの孫引きである。

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