扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

長州探訪 #17 山陽路を往く

2010年04月01日 | 街道・史跡

岩国を出たのは17:00過ぎ。

海岸へ出ると広島湾隣、厳島が見えすぐに広島県になる。
安芸国である。

岩国から50km足らず、そこに広島藩の居城、広島城がある。
目と鼻の先といっていい。
江戸期、安芸一国は浅野家42万6千石が支配した。
その前は豊臣方の猛将福島正則がいた。

広島の浅野家は長州の監視役であった。
同じ外様でありながら浅野は石田三成を嫌い、家康に擦り寄った。
紀伊に大領を得て秀忠の娘を嫁にもらい準譜代の扱いを受けた。
秀忠は福島正則を改易に追い込み空いた芸州を埋めるため、信頼厚い浅野を送り、空いた紀伊に親藩を置いた。

ところが長州征伐にあたっては最前線にあり当然先鋒を務めなければならないところ逃げに逃げた。
代わりに井伊家と越後高田の榊原が先鋒となって岩国を攻めた。
徳川四天王の末裔である。
第二次長州征伐芸州口の戦いは膠着状態で幕軍撤退を迎える。
萩も下関もはるかかなたである。
岩国の兵、長州諸隊はよく持ちこたえた。

幕軍が去ると芸州浅野家は日に日に長州に接近していき維新の裏方を務めた。
お隣さん同士の誼があったと思われる。

四境戦争の激戦の地を抜ければ宮島への渡し口がある。
厳島といえば宮島であろうが、若き毛利元就にとっては家運をかけて陶晴賢を追い落とした戦場である。
そろそろ夕暮れであるが天気が悪く視界も風情も今ひとつである。
瀬戸内の夕暮れは日本一なのだが惜しい。

右手に島々を見ながら行くと広島市内に入ってくる。
輝元の時代に築かれたのが広島城とその城下、新造都市といっていい。

毛利元就は安芸吉田郡山から中国王となった。
よって毛利家とは安芸の人々であった。
広島を流れる太田川をずっと上っていくと吉田郡山であり元就の墓もある。
毛利の聖地である。
孫の輝元は河を下り海に出た。
ところがすぐに城も安芸も失ったのである。

江戸期の長州人を考えるに「忍耐」「複雑」「屈折」「暴発」といった言葉が思い浮かぶ。
吉田松陰、久坂玄瑞、木戸孝允など典型である。高杉晋作はもう少しすっきりしているかもしれないがそれでも激情の人である。
戦国の世を考えてみても元就にせよ輝元にせよ、吉川広家にせよどこか屈折している。
元々の性格なのか、相次ぐ悲運のなせる業もあろうが、薩摩などと比べてみるとあざやかなコントラストを成している。
島津家の人々は家臣を含めていい意味で「単純」、しかも「剛健」なのである。

この旅であちこちうろうろしているとそのことがよくわかった。
毛利の聖地を訪れるのはまたの機会にし、薩摩から長州へと抜けてきたこの旅が一応終わる。


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