岡崎城は小さい。
家康館を出て二の丸を降りていくとすぐに堀がある。
岡崎城は西側の備えとして矢作川を要害とした。
矢作川は松平氏発祥の松平郷から岩津へ出て濃尾平野の東端を流れる。
尾張と三河の境界は境川という川である。
戦国期いわば境川と矢作川の中間地帯は尾張勢力と三河勢力の緩衝地帯として両者の草刈り場であった。
山も大河もないこの地帯は農耕には最適であったろうが平地とは守るに難い。
現在、この地帯は刈谷市や安城市といい私の実家も含まれる。
高校生の頃、帰りに岡崎から知立に西に向かうと夕陽が広大な田園地帯を照らす。
日本ではそれを意識できる場所は少ないと思われるが「地平線」を感じることができる。
家康の祖先は地平線を見て勢力を伸ばし、尾張の織田が膨張すると押され、矢作川の東、岡崎に退いた。
よって岡崎城の備えは西である。
岡崎城は矢作川と乙川が合流する三角地帯の丘陵を利用した。
丘陵といっても標高は低く、本丸を出てしまうと樹木に埋もれて石垣や初層は見えない。
矢作川から水続きであったことは水運の利をもたらした。
「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く」と謡われた。
岡崎城に城を築いたのは15世紀の半ば、西郷氏によってであった。
三河国は足利氏の勢力圏であった。西郷氏もその系列にある。
その時期にはむろん、石垣も天守もなく、丘の頂を平にして空堀をめぐらせただけものである。
松平郷から出てきた信光がそれを落とし松平氏を養子に入れた(岡崎松平氏)が、後に宗家に反してもう一度清康、つまり家康の祖父が落とした。
日本の城の転換期は織田信長が安土城を築き、新標準を作るまでは空堀を掘り、その土を内側に掻き上げて土塁としただけのものであって岡崎城もその例に漏れない。
よって基本設計は古い。
家康が生まれた頃の岡崎城は天守も櫓もなく、無論城下町もない。
西を見れば一面それこそ地平線まで大平原であったろう。
東を見れば今川の援軍が来る小山が続く。
家康の産湯の井戸が残されている。
なお、家康産湯の井戸は松平郷にもあり、家康誕生の報を聞くや早馬で岡崎まで駆けて届けたとされている。
こちらではその情報はない。
中世の城郭を近世の城郭に仕立てたのは田中吉政である。
東近江の出である田中吉政は近江八幡を与えられた秀吉の甥、秀次の宿老となって出世する。
羽柴秀次は摂政関白として悲惨な最期を遂げたため巷間にあまりよい印象を与えなかったが、近江八幡の民政では実績を残し地元受けもいまだにいい。
田中吉政自身が近江時代に民政をどの程度支えたかまだ知識が私にはないが、彼の近辺が粛正された折にもおとがめなしで済んでいることから秀吉は「使える」と考えたのであろう。
山内一豊や堀尾吉晴、中村一氏などが秀次近臣から小都市の大名になったように初めて岡崎で城持ち大名となった。
田中吉政が岡崎城に手を入れた点は城そのものの防御というよりも城下の整備であったといえる。
田中堀と呼ばれることになる堀で城下を囲み、惣構えとした。
また、東海道を城下に引き込んでなおかつ二十七曲がりというように何度も直角に道を曲げた。
その割には本丸など、西郷・松平時代の土塁に石垣を貼り付けただけのようで新たに新時代の象徴として三層の天守を本丸に上げたのだが、これも高々と石垣を組んで威容を誇るようなものでもなく大きさとしては慎ましい。
今、私の目の前には田中時代を復興した鉄筋コンクリートの天守が上がっているが桃山様式の特徴といえる破風がアクセントとなっており姿がいい。
この原型を元に家康の天下となってからこの神君誕生の城は譜代大名の城となって5万石の岡崎様として折にふれて補修されていく。
江戸期には東から東海道を来れば籠田の惣門をくぐって城内に入り、何度も曲がらされた旅人は小山にそびえる天守やら櫓の城塀を仰ぎつつ西に向かうことになる。
田中吉政とは秀吉が引き上げた官僚系の大名である。
前述の山内・堀尾・中村などと同様、東海道の抑えとして関八州に異動した家康が大坂に攻め入ることを予想して配置された。
つまり岡崎城の縄張りとは家康を仮想敵としたといえるだろう。
皮肉なことに関ヶ原の折、秀吉が置いた東海道の小大名は大は福島正則から小は田中や山内など軒並み家康に寝返り、小山から返してくる家康本軍の兵站となってしまう。
岡崎城は徳川が取り返すのであるが縄張りはじめ天守も豊臣時代の化粧のままであった。
大坂城は秀頼滅亡の後、家康は徹底的に破壊し、石垣も堀もわざわざ埋めてその上に徳川の大坂城をかぶせるのであるが、岡崎は豊臣時代の顔のままなのであることは多少おもしろい。
余談になるが田中吉政という男は関ヶ原で奮戦し、近江の後輩石田三成を山中で捕らえ検分した。
この功により戦後の論功行賞で筑後柳川33万石をもらう。
豊臣系大名は城下町整備と城郭建築にいいように使われ、子の代になると改易という運命にある。
岡崎城の次の仕事として柳川城の天守や城下整備を終えた後、子が無嗣断絶になる。
以上のように岡崎城は中世の砦を近世風に改修されたものである。
本丸の北面や西面は空堀が深く穿たれているし曲線で配された曲輪が小規模ながらいくつも独立し鉄砲や大筒を前提としなければそれなりに固いのかもしれない。
本丸南面から東面へは水堀が回されているのが今も残っている。
岡崎城は現在、樹勢があまりに強いのか樹木に覆われて天守全体をゆったりとみる場所がなく全体を写真に収めることは不可能である。
堀の幅が狭いこともありちんまりし過ぎていることはここが「岡崎公園」であって史跡、岡崎「城」公園とは呼ばれず地元でもそうは思われていないことにつながっているであろう。
古写真をみると確かに東海道から岡崎様を仰ぎ見ることはできていたようである。
本丸には虎口がふたつあり、石垣が組まれているものの自動車一台通れるくらいの幅しかない。
天守の石垣は野面積みであって低い。
天守に登ってみる。最上階は高欄があり外に出て一周することができる。
岡崎城下を一望することができるのだが、平成の城下は高層ビルに阻まれてかつての城下を想像することはできない。
矢作川や東海道、徳川家の菩提寺である大樹寺でさえ、よくよく見ないとわからない。
我が母校は東南方向にあるはずだがやはり見えない。
天守を降りて本丸を再び巡ってから、後にした。
ゆっくり見ても2時間もあれば足りてしまった。
岡崎城の歴史をたどるには十分であるが我が人生、30年前をも回想するにはいかにも短い。
岡崎城と城下町(城内案内より)
岡崎城天守
天守は複合型であるが石垣の高さなどバランスはよくない
本丸東の虎口
本丸、南面の堀