扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

豊臣化粧の三河武士の城 -岡崎城2-

2010年04月21日 | 日本100名城・続100名城

岡崎城は小さい。
家康館を出て二の丸を降りていくとすぐに堀がある。

岡崎城は西側の備えとして矢作川を要害とした。
矢作川は松平氏発祥の松平郷から岩津へ出て濃尾平野の東端を流れる。
尾張と三河の境界は境川という川である。
戦国期いわば境川と矢作川の中間地帯は尾張勢力と三河勢力の緩衝地帯として両者の草刈り場であった。
山も大河もないこの地帯は農耕には最適であったろうが平地とは守るに難い。

現在、この地帯は刈谷市や安城市といい私の実家も含まれる。
高校生の頃、帰りに岡崎から知立に西に向かうと夕陽が広大な田園地帯を照らす。
日本ではそれを意識できる場所は少ないと思われるが「地平線」を感じることができる。

家康の祖先は地平線を見て勢力を伸ばし、尾張の織田が膨張すると押され、矢作川の東、岡崎に退いた。
よって岡崎城の備えは西である。

岡崎城は矢作川と乙川が合流する三角地帯の丘陵を利用した。
丘陵といっても標高は低く、本丸を出てしまうと樹木に埋もれて石垣や初層は見えない。

矢作川から水続きであったことは水運の利をもたらした。
「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く」と謡われた。

岡崎城に城を築いたのは15世紀の半ば、西郷氏によってであった。
三河国は足利氏の勢力圏であった。西郷氏もその系列にある。
その時期にはむろん、石垣も天守もなく、丘の頂を平にして空堀をめぐらせただけものである。
松平郷から出てきた信光がそれを落とし松平氏を養子に入れた(岡崎松平氏)が、後に宗家に反してもう一度清康、つまり家康の祖父が落とした。

日本の城の転換期は織田信長が安土城を築き、新標準を作るまでは空堀を掘り、その土を内側に掻き上げて土塁としただけのものであって岡崎城もその例に漏れない。
よって基本設計は古い。

家康が生まれた頃の岡崎城は天守も櫓もなく、無論城下町もない。
西を見れば一面それこそ地平線まで大平原であったろう。
東を見れば今川の援軍が来る小山が続く。

家康の産湯の井戸が残されている。
なお、家康産湯の井戸は松平郷にもあり、家康誕生の報を聞くや早馬で岡崎まで駆けて届けたとされている。
こちらではその情報はない。

中世の城郭を近世の城郭に仕立てたのは田中吉政である。
東近江の出である田中吉政は近江八幡を与えられた秀吉の甥、秀次の宿老となって出世する。
羽柴秀次は摂政関白として悲惨な最期を遂げたため巷間にあまりよい印象を与えなかったが、近江八幡の民政では実績を残し地元受けもいまだにいい。
田中吉政自身が近江時代に民政をどの程度支えたかまだ知識が私にはないが、彼の近辺が粛正された折にもおとがめなしで済んでいることから秀吉は「使える」と考えたのであろう。

山内一豊や堀尾吉晴、中村一氏などが秀次近臣から小都市の大名になったように初めて岡崎で城持ち大名となった。

田中吉政が岡崎城に手を入れた点は城そのものの防御というよりも城下の整備であったといえる。
田中堀と呼ばれることになる堀で城下を囲み、惣構えとした。
また、東海道を城下に引き込んでなおかつ二十七曲がりというように何度も直角に道を曲げた。
その割には本丸など、西郷・松平時代の土塁に石垣を貼り付けただけのようで新たに新時代の象徴として三層の天守を本丸に上げたのだが、これも高々と石垣を組んで威容を誇るようなものでもなく大きさとしては慎ましい。
今、私の目の前には田中時代を復興した鉄筋コンクリートの天守が上がっているが桃山様式の特徴といえる破風がアクセントとなっており姿がいい。
この原型を元に家康の天下となってからこの神君誕生の城は譜代大名の城となって5万石の岡崎様として折にふれて補修されていく。
江戸期には東から東海道を来れば籠田の惣門をくぐって城内に入り、何度も曲がらされた旅人は小山にそびえる天守やら櫓の城塀を仰ぎつつ西に向かうことになる。

田中吉政とは秀吉が引き上げた官僚系の大名である。
前述の山内・堀尾・中村などと同様、東海道の抑えとして関八州に異動した家康が大坂に攻め入ることを予想して配置された。
つまり岡崎城の縄張りとは家康を仮想敵としたといえるだろう。
皮肉なことに関ヶ原の折、秀吉が置いた東海道の小大名は大は福島正則から小は田中や山内など軒並み家康に寝返り、小山から返してくる家康本軍の兵站となってしまう。
岡崎城は徳川が取り返すのであるが縄張りはじめ天守も豊臣時代の化粧のままであった。
大坂城は秀頼滅亡の後、家康は徹底的に破壊し、石垣も堀もわざわざ埋めてその上に徳川の大坂城をかぶせるのであるが、岡崎は豊臣時代の顔のままなのであることは多少おもしろい。

余談になるが田中吉政という男は関ヶ原で奮戦し、近江の後輩石田三成を山中で捕らえ検分した。
この功により戦後の論功行賞で筑後柳川33万石をもらう。
豊臣系大名は城下町整備と城郭建築にいいように使われ、子の代になると改易という運命にある。
岡崎城の次の仕事として柳川城の天守や城下整備を終えた後、子が無嗣断絶になる。

以上のように岡崎城は中世の砦を近世風に改修されたものである。
本丸の北面や西面は空堀が深く穿たれているし曲線で配された曲輪が小規模ながらいくつも独立し鉄砲や大筒を前提としなければそれなりに固いのかもしれない。
本丸南面から東面へは水堀が回されているのが今も残っている。
岡崎城は現在、樹勢があまりに強いのか樹木に覆われて天守全体をゆったりとみる場所がなく全体を写真に収めることは不可能である。
堀の幅が狭いこともありちんまりし過ぎていることはここが「岡崎公園」であって史跡、岡崎「城」公園とは呼ばれず地元でもそうは思われていないことにつながっているであろう。
古写真をみると確かに東海道から岡崎様を仰ぎ見ることはできていたようである。

本丸には虎口がふたつあり、石垣が組まれているものの自動車一台通れるくらいの幅しかない。
天守の石垣は野面積みであって低い。

天守に登ってみる。最上階は高欄があり外に出て一周することができる。
岡崎城下を一望することができるのだが、平成の城下は高層ビルに阻まれてかつての城下を想像することはできない。

矢作川や東海道、徳川家の菩提寺である大樹寺でさえ、よくよく見ないとわからない。
我が母校は東南方向にあるはずだがやはり見えない。

天守を降りて本丸を再び巡ってから、後にした。
ゆっくり見ても2時間もあれば足りてしまった。
岡崎城の歴史をたどるには十分であるが我が人生、30年前をも回想するにはいかにも短い。


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岡崎城と城下町(城内案内より)

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岡崎城天守

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天守は複合型であるが石垣の高さなどバランスはよくない
 
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本丸東の虎口
 

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本丸、南面の堀


徳川の実家にて -岡崎城1-

2010年04月21日 | 来た道

まるで初夏のような陽気になり、ふと思い立って岡崎城を訪れた。

私は豊田市に生まれ、三河と尾張を隔てる境川のわずか東、桶狭間からもそう遠くない地で育った。
高校受験の際、野球部の仲間や多くの同級生が豊田市に新設される高校に半ば強制的に行く中、へそ曲がりなことに岡崎高校を受験し運良く合格した。
仲間を裏切ったせいで多少は恨まれ、今の交友関係にも影響しているはずであるがともかく3年間、名鉄電車に乗って岡崎まで通った。

東岡崎駅に着く直前、進行方向左側をみると岡崎城の天守が見える。
日本人は近世の城が好きでかつて天守を頂く城があった場合、例外なくといっていいほど再建運動が起き、再び天守が上がる。
岡崎城もそのようにして鉄筋コンクリートで再建された。

中学生の頃、「人生の中で最も」といいほどに歴史を愛した自分ではあったが岡崎城という最も愛着を持っていいはずのこの城に今思えばおかしいほど冷淡であった。

それはよくあるように「コンクリートではね」というのもあったし、平城であるが故に「見上げる」どころか車窓から見ると本丸など「見下げる」形になっていたことも関係しているはずだが、最も心にあったのは岡崎城がどうにも城の主人の姿がオーバーラップしないことであったように思う。
そのことが灯台下暗しを増幅し岡崎城の本丸、天守に行ったことは数回であるはずであり、しかもその折の感情も情報も残っていない。

高校を卒業してしまうとめっきり岡崎に行くことも少なくなり、社会人になり名古屋で勤め人となった年、1987年に岡崎城を中心に開催された「葵博」にも行くことなく終わった。

岡崎城は国道1号線が二の丸をかすめていく。
国道1号とは東海道である。
岡崎城は今、岡崎公園の一部になっており二の丸御殿跡には「三河武士のやかた家康館」が葵博を機にできた。

閑散としている駐車場に車を停める。
大手門が再建されておりここを入った辺りが二の丸であるはずである。
家康館に入ってみる。

岡崎城は家康が生まれた城であり、徳川家とは縁が深いわけだが史料という点ではなかなか難しい。

徳川家の発祥は関東から流れてきた親氏が松平郷に土着し子孫が家運を開いていく。
山を降り、平地に進出した松平氏は西三河を平定し一時興隆を迎えるのだが尾張の織田、遠江の今川の間にあって苦しんだ。

桶狭間まで徳川家の当主家康は自分の城でありながら常に監視役が岡崎に目を光らせ気が休まることがなかった。
今川義元が信長に首印をあげられ、遠江に撤収してしまったことでようやく捨て城を拾うように岡崎城に入城するのである。

ようやく実家に戻ってみても腰が落ち着くことはなく、家康は遠江に出稼ぎに行き、今川を追って浜松に本城を定める。
家康の天下取りの痕跡は野戦であり城ではない。
彼の武勇を高めることになったのは三方原であり長篠であり小牧長久手なのである。

そしてもうひとつ、家康にとって岡崎城は哀しみの城ともいえる。
家康は浜松に移ると最愛の嫡男、信康を岡崎に入れた。
家康の正室、築山殿は今川家臣の娘である。
人質時代の悪夢を思い起こさせる妻を家康は信康に付けた。
夫に遠ざけられた築山殿は武田家との内応を画策して発覚し、信長は家康の妻子を死罪にしてしまう。
家康はこの事件を表面上はなかったことのように忘れたように振る舞ったが老いて後も信康を思い出しては惜しんだらしい。
岡崎城は信康を思い出してしまう城ではなかったか。
ともあれ家康は岡崎城を戦略上も戦術上も重用視せず単なる宿か、倉庫のように使った。

この地元の郷土資料館が何をテーマにするか難しいのはそういう事情による。
そして「三河武士」をテーマに取った。

三河武士とはいうまでもなく家康の家臣団である。
彼等は松平家に臣従した時期により、「安祥譜代」「山中譜代」「岡崎譜代」などという。
要するに徳川家臣団は古いほどよい。
特に徳川になる以前、松平元康、その父の時期、最も松平宗家が苦しかった時期を支えた家臣の家系を家康は大事にした。
徳川四天王などと呼ばれた井伊直政などは古参の家臣からすれば洟垂れのようなものであろう。

家康館の展示も彼等家臣をクローズアップしている。
また、家康の創業期にあった一向一揆の紹介をしていることは好ましい。

永禄6年、信長と同盟した直後の家康は一向宗の扇動により動揺した家臣が離反し重大な危機に陥る。
後に家康・秀忠の謀臣となる本多正信など一向宗に転んだ。
あまり紹介されることのないこの事件ではあるがこの宗教戦争を共に乗り切ったことで家康家臣団は強い絆で結ばれるのである。
また、一向宗に寝返った後、戻ってきた本多正信なども赦し、差別することがなかった。

展示のクライマックスは関ヶ原に設定され、ジオラマ化されている。
三河武士は関ヶ原の後、中央政権の官僚として大いに出世し、譜代大名となっていくから現場の部隊は関ヶ原が最後になる。
とはいえ、関ヶ原では井伊直政こそ先陣を福島正則から奪ったものの、島津義弘の撤退戦を追撃した際に撃たれこの傷が元で死んでしまうし榊原康政は上田の真田にひっかかって遅参、酒井忠次はすでに世にない。
ただし、本多忠勝はいつものように勇猛であった。

徳川家臣で最も人気があるのは本多平八郎忠勝であろう。
公園内に銅像があり、館内に鹿角脇立兜に大数珠を巻いた黒糸威の具足レプリカがある。
また、蜻蛉切のレプリカもある。

三河武士というのは主君には忠であるが、そのあまり他家のものなどに対して猜疑心深く心底が知れないと陰口をたたかれた。
また、家康自身がそうであるように質素で華美を嫌った。
一般に三河武士の評判はよくないのであるが家康家臣には確かに出奔した石川数正、信康自刃につながる軽口をした酒井忠次、権謀術数が過ぎた本多親子などどこかに傷があるのである。

本多忠勝は生涯ひとつの傷も負わなかったとされるが、思想上、あるいは行動上の傷もまたみあたらない。
三河者の気質については私自身三河者であるのでよくも悪くもいちいち思い当たらないでもない。
だからこそ曇りのない忠勝にはまるで体育会の主将のような憧れがある。

忠勝は最後の大仕事として娘を嫁にやった真田信之を擁護し真田家断絶を回避した。
彼なくして、徳川の仇敵真田の嫡流が残ることはなかったであろう。
世から合戦が絶えると猛将は消えていく。
本多家は幕閣に登場することもなく細々と維新を迎えるのである。

Photo
復元された岡崎城大手門


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本多忠勝像