扶桑往来記

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長州探訪 #15 吉川資料館

2010年04月01日 | 街道・史跡

山麓に降り、吉川資料館に寄る。

こちらは吉川氏が伝えた宝物を展示する。

吉川広家については岩国城址で考えた。
吉川氏に毛利元就が広家の父、元春を養子に入れ強引に毛利一族に加えたわけだが吉川氏とは元々山陰の名族であった。
その出自は平安末期、藤原南家の支流だという。
吉川家の始祖を経義といい頼朝に近侍した。2代の友兼は梶原景時一族を駿河狐ヶ崎で討ち取る。
子孫の内、石見に根を下ろしたのが毛利氏につながる家系である。
大江広元を祖に持つ毛利に比肩する筋目のよさである。

資料館には国宝の太刀「狐ヶ崎」があるが、これは梶原景時の三男を斃した際に使用されたものである。

今回の展示でおもしろいのは吉川家の文書である。

展示品と概要を記す。全て重文である。
丁寧に現代語訳がついており要約して付記する。

○吉川経言(広家)書状
○豊臣秀吉検地知行判物井目録写
※天正19年(1591)、秀吉により毛利輝元は112万石を安堵された。この時、吉川広家は伯耆・出雲・壱岐を新たに領することになった。
○徳川家康書状
※慶長5年の関ヶ原の戦いの直前、吉川広家は黒田長政を通じ、家康に敵意のないことを申し入れる。
それを受けた家康が長政に「広家の申し入れを了承した」と伝える書状。
日付は8月8日
○黒田長政書状
※上記家康の返事を受け、長政が広家に「家康に広家の申し出が伝わっていること、家康は輝元が西軍の総帥になった背景は安国寺恵瓊の策略であると思っている、家康へは長政が調停するので輝元に家康と敵対することないよう尽力してください」と伝える書状。
日付は8月17日
○黒田長政書状
※家康が駿河府中(駿府)まで出馬することを伝え、輝元の自重を念押し、返事をくれるよう要求する書状。
日付は8月25日
○井伊直政本多忠勝連署起請文
※関ヶ原前日、広家と福原広俊が徳川方と和平の密約をし、戦いに不参加することを条件に毛利家の所領安堵を約束した誓約書の写。
日付は9月14日
○吉川広家覚書案
※慶長6年、関ヶ原の翌年、家中に主家を窮地に陥れたと批判されていた広家が輝元にあてて弁明した書の控え。

○領地内渡注文
※慶長5年、家康から防長二国に押し込められた毛利家から広家に岩国を与える書状、毛利家の家老が連署。

○毛利宗瑞(輝元)書状
※毛利家と吉川家の縁組を祝う書状。
日付は元和元年(1615)12月18日
○吉川広家書状案
※上記を受けた返書
日付は元和元年12月24日

この一連の書簡は吉川広家が決して毛利家を裏切ることなくむしろ被害者であったことを示している。
こうした書状を子孫に伝えていることなど実に可憐である。

特に輝元に宛てた弁明などこちらが泣けそうなくらいに切ない。
関ヶ原の戦況と自分の心持ちをくどくどと述べ、安国寺恵瓊に責任を押しつけている。
広家は秀吉の中国大返しの一件まで持ち出し「秀吉を追撃するような話もあったけれども前日に和睦をしていた以上、約束を違えることはしなかった、あの時、叔父の小早川隆景も約を守って秀吉に恩を売ったことを自慢していたではないですか、今回も前日に毛利家安堵は私が起請文を取っているのです、恵瓊は主戦論を言う割に進軍していないではないですか」とまで訴えている。

意地悪くみれば単に文書を展示するだけではなく訳までつけ、前後の文脈がわかるように展示されていることも現代の吉川家関係者が、未だに汚名返上を訴えているようにみえる。
長州の人はここでもおもしろい。

展示には吉川広家所用の甲冑、「龍の丸具足」もあった。
保存状態がよく獣毛の毛並が見事に残されている。

金の「貝の息」の前立に腹巻には金の三爪の龍の蒔絵が見事である。

ちなみに吉川家は幕末、長州が幕府と対立した折、地味に役目を果たした。
当主、吉川経幹は第一次長州征伐において幕府方の総督尾張候徳川慶勝、参謀西郷隆盛に折衝し、家老の切腹のみで切り抜ける。
第二次長州征伐は四境戦争となり、岩国は山陽道を進む幕府本軍を引き受ける。
吉川家中は萩の本軍や諸隊と共同して防長の大手口をよく守った。

毛利家中に冷遇された岩国の吉川家中は本藩の危機を前に和解し、二度の危機を救ったのである。
もしも広家の意趣返しと称して吉川家が幕府方になびこうものなら薩長同盟はなっていたかどうか。
吉川経幹という人もいい。


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