扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

九州・長州探訪 番外 兵庫#1 御家再興と明石城

2010年04月02日 | 日本100名城・続100名城

朝一で明石城に向かった。
昨晩の嵐から天気は回復し気分がいい。

明石城はJR明石駅から近い。
明石城は駅のホームから石垣や櫓がよくみえるらしい。
反面、市街地に近いということは都市化され旧態が埋もれてしまうということでもある。
実際、明石城は城廻という点ではおもしろみに欠け、市民公園としてのアイデンティティが主であろう。

城は江戸初期、元和3年(1617)に小笠原忠真によって築かれた。禄高10万石であるから大身ではない。
小笠原氏は有職故実に通じた名家であって小耳によくはさむ。
元々源義光につながる源氏であって家祖は甲斐の小笠原荘を領した。
陸奥南部氏は同族となる。

源氏の名家という点では関東から来た武田氏が本流である。
戦国時代、甲斐の武田と信濃の小笠原は衝突、名目上のことでしかないが両者甲斐の守護、信濃の守護として争った。
小笠原の当主長時は深志城(今の松本市)に拠った。大河ドラマ「武田信玄」でも甲越間で悩む武将として登場してくる。
信濃を巡っては川中島に代表されるように武田晴信と上杉景虎が激しく攻防するのだが信濃の情勢に影響を与えたのは小笠原長時というよりも村上義清の方であろう。

小笠原家は有職故実に通じた家として名高く中央にコネがあった。
ただ、小笠原長時は名家を鼻にかけ、村上など周囲を見下す傾向があったとされ、アンチ甲斐勢力を糾合することはできず、時勢を傍観してしまい結局敗走、流浪の日々を送る。
景虎を頼り越後に逃れた後に上洛、三好長慶に身を寄せる。
運の悪いことに京では将軍家も三好勢も凋落、越後に舞い戻った長時は景虎死後の跡目争いの混乱で今度は会津に逃亡、蘆名を頼りそこで天正11年(1583)客死した。

小笠原家再興は三男の貞慶に託される。
貞慶は織田信長の元で旧領回復に奔走し紆余曲折を経て本能寺の変の後、一時旧領を回復する。
ところが貞慶は深志城に入ったのもつかの間、徳川家を出奔して秀吉に寝返った石川数正に深志城が与えられてしまい数正の元で秀吉派になってしまう。
秀吉の北条攻めに従って軍功を挙げた貞慶は讃岐半国を与えられたものの秀吉の勘気に触れて改易、再び家康の客将になって関東で没する。
この人も運がない。

名門小笠原の復興は長時の孫が受け継いだ。
秀政である。
家康に人質として差し出された幼少期であった。
悲運の姫をめとった。
信長に殺された家康の嫡男信康の娘である。
家康からみれば秀政は孫の婿ということになる。
家康の天下になるとついに悲願の松本(旧深志)城主となり、祖父の夢をかなえた。

ただし天下は盤石ではなく秀政は大坂夏の陣に長男忠脩と共に出陣、天王寺口から侵攻する。
真田信繁(幸村)らが奮戦した夏の陣最大の激戦である。
この方面では本多忠勝の次男忠朝が戦死、家康が一時惑乱するほどの崩れようであったが、乱戦の中で秀政は重傷を負い死んだ。忠脩も戦死した。
どうしてこう小笠原の人々は運がないのであろうか。

家康は秀政の次男を立て、松本小笠原藩の2代とした。
この人が忠真である。
徳川は小笠原を捨て置かなかった。
名家好きというのは徳川家の癖になっていくが、芸は身を助けるということか。
忠真は本多忠勝の長男忠政の娘を正室にする。
舅殿は弟を婿殿は父兄を大坂の陣で失った戦友ということになるか。
そして忠真が明石に移封され新城を築いたのが明石城である。
築城にあたっては幕府が協力した。

松本8万石と明石10万石、どちらがうれしいか。
ちなみに本多忠政はこの時姫路城主である。

かように明石城というのは城そのものよりも明石城主に至るまでの小笠原氏の流浪の旅の方がはるかにおもしろい。
一族身を削りに削って粉にして得た城なのである。
信長・秀吉・家康と時の天下人と交錯する人間ドラマが描けるかもしれない。

さて城のこと。
明石城址は明石公園となっており、野球場がふたつ、陸上競技場、自転車競技場をはじめスポーツ施設が林立している。
かつては海岸線が迫っていることもあり往時の姿はない。
石垣はよく残っており、本丸の南面には三重櫓がふたつ残っている。
天守台が築かれたが天守を上げることなく三重櫓を天守の代用とした。
10万石の城としては不相応に大きい。
これは山陽道・明石海峡の押さえとした軍事要塞として考えられたのであろう。
南側から本丸を見上げると高石垣の上に左右対称に櫓が載り美しい。
逆に本丸からは明石海峡がわずかに見えその背後に淡路島が大きく迫っている。
明石大橋は東南の方に見えている。

小笠原家は築城後ほどなく豊前小倉に転封になる。知行は増えて15万石に栄転である。
小倉は九州の本州側窓口として、また関門海峡の向こうでネコになっている毛利を監視する要衝であった。
小笠原家は明石の頃から宮本武蔵と親交があり小倉においては彼の養子伊織を家老に召し抱えている。
島原の乱が起こった時、武蔵親子は小笠原の陣で戦闘参加した。

さらに幕末、長州征伐においては九州から攻める総司令官の立場でありながら緒戦で負けると小倉城を焼いて逃げるという失態も小笠原の末裔である。

明石城は阪神淡路大震災の震源に最も近い城でありながら三重櫓は残った。
ご先祖様のしぶとさが乗り移ったような気がして可笑しい。

今日はこれから今回の西国探訪の最後として篠山城に行く。
 

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大手の桝形、石垣は流石に立派
 

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巽櫓
 

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坤櫓
 

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JR明石駅、背後は淡路島

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明石大橋がみえる




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