扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

長州探訪 #12 防府の国衙跡

2010年04月01日 | 街道・史跡

国分寺から国衙跡に行く。

国衙とは国府の役所をいう。
周防の国衙は四隅が確定されている点で珍しく、周辺の地名にも国衙が残る。

史跡といっても礎石があるのみであり、太宰府跡にたたずまいは近い。
周防の国衙は発掘された遺跡から東西215m、南北216m、周囲は回廊または築地で囲まれていたことが推定されている。一国の政庁としては実につつましい。

周防の国衙が律令制崩壊の後も機能したのには理由がある。
律令制を滅ぼしたものは武家政権である。
源九郎義経追討のためと称して全国に守護を置いた源頼朝に始まる幕府は、周到に公家政治の根幹を支える土地制度を侵していった。収入がなければ根腐れになることは明白であって国司も郡司も有名無実化していった。
とどめを刺したのが戦国大名である。
中央政権が崩壊した戦国時代にあっては国司という職もその政庁も無用となって破却され国の象徴は戦国大名の居城となった。

周防国は平安末期、平家が焼いた東大寺の復興の造営国となった。国司の代わりに重源が国の主を代行し、国府あたりを治外法権として武家の侵害から守った。重源は奈良の大仏を鋳直し、慶派の仏師を招いて仁王が見下ろす南大門を遺した功労者であるがその財源を周防が担ったということになる。
工期はわずか15年。この間、平家が滅び頼朝が征夷大将軍になった。

東大寺の僧はその後も守護大名、大内氏とも折り合いを付け、毛利氏が勃興して中国王となると政庁寺として東大寺の別院になって生き長らえた。ここは明治になるまでは寺であったのである。

国衙の近くには多々良大佛という盧舎那仏がある。
大佛といっても高さ約3mと小さい。
重源は国衙を奈良の都に模して東大寺のあるべきあたりにこの大佛を安置した。
そこが毛利家屋敷になりここに移されてきた。
この仏は重源作ともいうのだが定かではない。今では地元の守り仏になっているのであろう。

重源は快慶作と伝わる像が東大寺に伝わる。
気骨が伝わるいい顔をしている。
東大寺の用材は周防から運ばれた。
ここから見える山々から切り出されていったのだろうか。

周防の国衙は重源が守ったといえなくもない。
 
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国庁の碑

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東屋のあたりに国庁の建物があった

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多々良大佛




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