扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

九州・長州探訪を終わる

2010年04月02日 | 街道・史跡

篠山から東へ行く。
今日は豊田の実家に戻るのである。

篠山を東に行けば亀岡、ここから国道9号を行く。旧山陰道である。
亀岡から京に行く道は明智光秀が本能寺に向かった道である。

老いの坂を降り桂川にいたった時、光秀は「敵は本能寺にあり」と言う。
京都市内に入ると道は五条通、国道1号になる。
1号線で山科を抜け京都東ICから名神高速に入る。
大津SAで琵琶湖の夜景をしばしながめ、第二名神で一気に豊田まで走った。

車中、次はどこに行こうか、四国か陸奥かと悩んでいたら疲れもせずに旅が終わった。

走行距離は有に4000kmを超えていた。


九州・長州探訪 番外 兵庫#2 ドリームチームの天下普請、篠山城

2010年04月02日 | 日本100名城・続100名城

明石から途中神戸に寄った後、丹波篠山に向かう。

六甲をよじ登り有馬温泉郷を抜けると三田である。
今でこそ神戸は大都市、三田はそのベッドタウン、人物供給地となっているのだが昔は違った。
幕末に開港されるまで神戸はただの漁村、対して三田は肥沃な町であった。
三田は江戸期、九鬼水軍を擁して威勢がよかった九鬼氏が転封されていた。
陸に上がったカッパである。

篠山は丹波国になる。
丹波は山深い。
歴史の教科書に出てくるような出来事は起こらないが中央にとっての要衝である。
京から山陰に出て行く玄関口、播磨・摂津をつつくことができる根拠地であった。
地元の人には申し訳ないがいかにも山賊の類がいそうな土地柄といえる。

東海道や山陽道といった平地を通ってゆく街道筋に比べ丹波は盆地を縫うように町がある。
亀岡、福知山、そして篠山などである。
山地の盆地では中世に中央権力が衰えるとそれぞれが自立し独立都市になる。信濃でも安芸でも同じであり武田や毛利といった全体をまとめうる勢力が勃興するまで国人衆が元首である。
赤井・波多野・内藤を戦国丹波三強という。
ただし、彼等は京周辺の勢力と協調したりはするが自ら国を出て伸長しようとはしなかった。

丹波にはじめて「統治」をもたらしたのは明智光秀、彼は福知山では治国の君として今だに人気がある。
あまり丹波の歴史について知識がないため踏み込んで考えられないのだが要するに丹波は京を防衛する前線基地のひとつと思われる。
京を城に例えれば丹波は馬出である訳だ。

丹波を車で走っているとそれほど山深いという印象はなく天は広い。
日暮れまで時間がないためできるだけ短い距離で篠山に入ろうと三国ヶ岳を超える。
舗装はされているものの道は細い。1台のクルマもすれ違わなかった。
山中ところどころ湧き水が道を横切りどうどうと流れている。
篠山城址についたら16:00を回っていた。

篠山城は慶長13年(1608)、家康は自身の落胤説もある一族松平康重を入れ新城を築くことにし、いわゆる天下普請を命じ15ヵ国20大名に手伝わせた。
家康は江戸幕府を開き、豊臣恩顧の大名を徐々に追い詰め盤石の体制を築きつつあった。
家康は最後の仕事として豊臣家の消滅と西国大名の反乱東上への備えを構想した。山陰道を来る西国兵力への備えが篠山城である。
このため山深い篠山にあって堅固な平城を造ったのである。
普請奉行は池田輝政、縄張は藤堂高虎である。
池田輝政は姫路城主で天下無双の美城を築き、藤堂高虎はいうまでもなく加藤清正と並ぶ築城・石垣積みの名人である。
この時期、慶長年間は織豊期から続いた築城技術革新の粋を集めうる。
いわばこの築城はドリームチームが最も脂の乗った時期に構想したのである。
水堀で囲った平城・高石垣・三方の馬出などが活用されている。

篠山城には昭和19年に焼失した大書院が復元されており石垣は往時の姿を残している。
大書院は京の二条城御殿を参考にしたとのことで入母屋の様相などは確かに似ている。

大書院は博物館になっており閉館まで時間がないためあわてて見て回る。
最初の展示室に篠山城の模型が置いてある。

戦国の山城を改修するのでなく更地に白紙の設計図から起こしたのであろう。
家康の平城は四角い。
内堀と外堀をほぼ正方形に廻らせ本丸を守り、城下町の外に惣堀を持つ。
本丸の角に天守台が置かれている。
当然、層塔型の五層ほどの天守を上げるところであったが、家康の命により中止になった。
「この城は堅固すぎる」と家康が苦にしたらしい。
城を造らせておきながら「やり過ぎたわい」というあたり大坂攻め前の家康の複雑な面持ちが浮かぶようである。
西国大名に取られでもしたら取り戻すのに骨折りということであろう。
藤堂高虎は領地伊賀上野に無双の高石垣を持つ上野城を築き豊臣方東征に備えたのだがそこでも自ら天守を壊したという逸話がある。

夕暮れの中、二の丸を見て回る。天守台からは篠山盆地を形成する山々がぐるりと見える。
見事な盆地振りである。

高石垣を上から見下ろすと堀との間に犬走がある。
しかもかなり幅が広い。
名古屋や大坂といった大都市の築城ならいざ知らず山深い篠山に大名が20人、わらわらと集まって1年足らずでこの城を造った。
結局、敵など来はせずに淡々と譜代大名が城主を務めた。
青山氏が最も長く維新を迎え、新政府軍にあっさりと恭順する。
青山氏というのは三河譜代の徳川家臣であった。
本多、酒井といった面々ほどの活躍は広く伝わってはいないのだが東京は青山という地名は元亀天正から家康に近侍した青山忠成にちなむ。
確か家康に「おぬし馬で駆けた分だけ屋敷にするがよい」といわれて駆け回ったのが青山辺りだったというのではなかったか。

篠山城の三の丸、内堀と外堀の間には幼稚園と小学校が鎮座している。
余所者からすれば「何もこんなところに造らないでも」と思ってしまう。
折角の馬出は南側のみがほぼ完全に残っているのみである。
まあかつての城跡に市役所やら県庁やらを建てまくるのは全国的な傾向ではある。

ここを最後にこの九州・長州の旅が終わる。
まことにのどかな篠山盆地の山々をながめながら11日間にわたる城巡りを想ったりした。
 

Photo
篠山城下、博物館展示より

Photo_2
大手の虎口、鉄門があった

Photo_3
大書院

Photo_4
高石垣、犬走がみえる

Photo_5
石垣の刻印




九州・長州探訪 番外 兵庫#1 御家再興と明石城

2010年04月02日 | 日本100名城・続100名城

朝一で明石城に向かった。
昨晩の嵐から天気は回復し気分がいい。

明石城はJR明石駅から近い。
明石城は駅のホームから石垣や櫓がよくみえるらしい。
反面、市街地に近いということは都市化され旧態が埋もれてしまうということでもある。
実際、明石城は城廻という点ではおもしろみに欠け、市民公園としてのアイデンティティが主であろう。

城は江戸初期、元和3年(1617)に小笠原忠真によって築かれた。禄高10万石であるから大身ではない。
小笠原氏は有職故実に通じた名家であって小耳によくはさむ。
元々源義光につながる源氏であって家祖は甲斐の小笠原荘を領した。
陸奥南部氏は同族となる。

源氏の名家という点では関東から来た武田氏が本流である。
戦国時代、甲斐の武田と信濃の小笠原は衝突、名目上のことでしかないが両者甲斐の守護、信濃の守護として争った。
小笠原の当主長時は深志城(今の松本市)に拠った。大河ドラマ「武田信玄」でも甲越間で悩む武将として登場してくる。
信濃を巡っては川中島に代表されるように武田晴信と上杉景虎が激しく攻防するのだが信濃の情勢に影響を与えたのは小笠原長時というよりも村上義清の方であろう。

小笠原家は有職故実に通じた家として名高く中央にコネがあった。
ただ、小笠原長時は名家を鼻にかけ、村上など周囲を見下す傾向があったとされ、アンチ甲斐勢力を糾合することはできず、時勢を傍観してしまい結局敗走、流浪の日々を送る。
景虎を頼り越後に逃れた後に上洛、三好長慶に身を寄せる。
運の悪いことに京では将軍家も三好勢も凋落、越後に舞い戻った長時は景虎死後の跡目争いの混乱で今度は会津に逃亡、蘆名を頼りそこで天正11年(1583)客死した。

小笠原家再興は三男の貞慶に託される。
貞慶は織田信長の元で旧領回復に奔走し紆余曲折を経て本能寺の変の後、一時旧領を回復する。
ところが貞慶は深志城に入ったのもつかの間、徳川家を出奔して秀吉に寝返った石川数正に深志城が与えられてしまい数正の元で秀吉派になってしまう。
秀吉の北条攻めに従って軍功を挙げた貞慶は讃岐半国を与えられたものの秀吉の勘気に触れて改易、再び家康の客将になって関東で没する。
この人も運がない。

名門小笠原の復興は長時の孫が受け継いだ。
秀政である。
家康に人質として差し出された幼少期であった。
悲運の姫をめとった。
信長に殺された家康の嫡男信康の娘である。
家康からみれば秀政は孫の婿ということになる。
家康の天下になるとついに悲願の松本(旧深志)城主となり、祖父の夢をかなえた。

ただし天下は盤石ではなく秀政は大坂夏の陣に長男忠脩と共に出陣、天王寺口から侵攻する。
真田信繁(幸村)らが奮戦した夏の陣最大の激戦である。
この方面では本多忠勝の次男忠朝が戦死、家康が一時惑乱するほどの崩れようであったが、乱戦の中で秀政は重傷を負い死んだ。忠脩も戦死した。
どうしてこう小笠原の人々は運がないのであろうか。

家康は秀政の次男を立て、松本小笠原藩の2代とした。
この人が忠真である。
徳川は小笠原を捨て置かなかった。
名家好きというのは徳川家の癖になっていくが、芸は身を助けるということか。
忠真は本多忠勝の長男忠政の娘を正室にする。
舅殿は弟を婿殿は父兄を大坂の陣で失った戦友ということになるか。
そして忠真が明石に移封され新城を築いたのが明石城である。
築城にあたっては幕府が協力した。

松本8万石と明石10万石、どちらがうれしいか。
ちなみに本多忠政はこの時姫路城主である。

かように明石城というのは城そのものよりも明石城主に至るまでの小笠原氏の流浪の旅の方がはるかにおもしろい。
一族身を削りに削って粉にして得た城なのである。
信長・秀吉・家康と時の天下人と交錯する人間ドラマが描けるかもしれない。

さて城のこと。
明石城址は明石公園となっており、野球場がふたつ、陸上競技場、自転車競技場をはじめスポーツ施設が林立している。
かつては海岸線が迫っていることもあり往時の姿はない。
石垣はよく残っており、本丸の南面には三重櫓がふたつ残っている。
天守台が築かれたが天守を上げることなく三重櫓を天守の代用とした。
10万石の城としては不相応に大きい。
これは山陽道・明石海峡の押さえとした軍事要塞として考えられたのであろう。
南側から本丸を見上げると高石垣の上に左右対称に櫓が載り美しい。
逆に本丸からは明石海峡がわずかに見えその背後に淡路島が大きく迫っている。
明石大橋は東南の方に見えている。

小笠原家は築城後ほどなく豊前小倉に転封になる。知行は増えて15万石に栄転である。
小倉は九州の本州側窓口として、また関門海峡の向こうでネコになっている毛利を監視する要衝であった。
小笠原家は明石の頃から宮本武蔵と親交があり小倉においては彼の養子伊織を家老に召し抱えている。
島原の乱が起こった時、武蔵親子は小笠原の陣で戦闘参加した。

さらに幕末、長州征伐においては九州から攻める総司令官の立場でありながら緒戦で負けると小倉城を焼いて逃げるという失態も小笠原の末裔である。

明石城は阪神淡路大震災の震源に最も近い城でありながら三重櫓は残った。
ご先祖様のしぶとさが乗り移ったような気がして可笑しい。

今日はこれから今回の西国探訪の最後として篠山城に行く。
 

Photo
大手の桝形、石垣は流石に立派
 

Photo_2
巽櫓
 

Photo_3
坤櫓
 

Photo_5
JR明石駅、背後は淡路島

Photo_6
明石大橋がみえる