扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

九州・長州探訪 番外 兵庫#2 ドリームチームの天下普請、篠山城

2010年04月02日 | 日本100名城・続100名城

明石から途中神戸に寄った後、丹波篠山に向かう。

六甲をよじ登り有馬温泉郷を抜けると三田である。
今でこそ神戸は大都市、三田はそのベッドタウン、人物供給地となっているのだが昔は違った。
幕末に開港されるまで神戸はただの漁村、対して三田は肥沃な町であった。
三田は江戸期、九鬼水軍を擁して威勢がよかった九鬼氏が転封されていた。
陸に上がったカッパである。

篠山は丹波国になる。
丹波は山深い。
歴史の教科書に出てくるような出来事は起こらないが中央にとっての要衝である。
京から山陰に出て行く玄関口、播磨・摂津をつつくことができる根拠地であった。
地元の人には申し訳ないがいかにも山賊の類がいそうな土地柄といえる。

東海道や山陽道といった平地を通ってゆく街道筋に比べ丹波は盆地を縫うように町がある。
亀岡、福知山、そして篠山などである。
山地の盆地では中世に中央権力が衰えるとそれぞれが自立し独立都市になる。信濃でも安芸でも同じであり武田や毛利といった全体をまとめうる勢力が勃興するまで国人衆が元首である。
赤井・波多野・内藤を戦国丹波三強という。
ただし、彼等は京周辺の勢力と協調したりはするが自ら国を出て伸長しようとはしなかった。

丹波にはじめて「統治」をもたらしたのは明智光秀、彼は福知山では治国の君として今だに人気がある。
あまり丹波の歴史について知識がないため踏み込んで考えられないのだが要するに丹波は京を防衛する前線基地のひとつと思われる。
京を城に例えれば丹波は馬出である訳だ。

丹波を車で走っているとそれほど山深いという印象はなく天は広い。
日暮れまで時間がないためできるだけ短い距離で篠山に入ろうと三国ヶ岳を超える。
舗装はされているものの道は細い。1台のクルマもすれ違わなかった。
山中ところどころ湧き水が道を横切りどうどうと流れている。
篠山城址についたら16:00を回っていた。

篠山城は慶長13年(1608)、家康は自身の落胤説もある一族松平康重を入れ新城を築くことにし、いわゆる天下普請を命じ15ヵ国20大名に手伝わせた。
家康は江戸幕府を開き、豊臣恩顧の大名を徐々に追い詰め盤石の体制を築きつつあった。
家康は最後の仕事として豊臣家の消滅と西国大名の反乱東上への備えを構想した。山陰道を来る西国兵力への備えが篠山城である。
このため山深い篠山にあって堅固な平城を造ったのである。
普請奉行は池田輝政、縄張は藤堂高虎である。
池田輝政は姫路城主で天下無双の美城を築き、藤堂高虎はいうまでもなく加藤清正と並ぶ築城・石垣積みの名人である。
この時期、慶長年間は織豊期から続いた築城技術革新の粋を集めうる。
いわばこの築城はドリームチームが最も脂の乗った時期に構想したのである。
水堀で囲った平城・高石垣・三方の馬出などが活用されている。

篠山城には昭和19年に焼失した大書院が復元されており石垣は往時の姿を残している。
大書院は京の二条城御殿を参考にしたとのことで入母屋の様相などは確かに似ている。

大書院は博物館になっており閉館まで時間がないためあわてて見て回る。
最初の展示室に篠山城の模型が置いてある。

戦国の山城を改修するのでなく更地に白紙の設計図から起こしたのであろう。
家康の平城は四角い。
内堀と外堀をほぼ正方形に廻らせ本丸を守り、城下町の外に惣堀を持つ。
本丸の角に天守台が置かれている。
当然、層塔型の五層ほどの天守を上げるところであったが、家康の命により中止になった。
「この城は堅固すぎる」と家康が苦にしたらしい。
城を造らせておきながら「やり過ぎたわい」というあたり大坂攻め前の家康の複雑な面持ちが浮かぶようである。
西国大名に取られでもしたら取り戻すのに骨折りということであろう。
藤堂高虎は領地伊賀上野に無双の高石垣を持つ上野城を築き豊臣方東征に備えたのだがそこでも自ら天守を壊したという逸話がある。

夕暮れの中、二の丸を見て回る。天守台からは篠山盆地を形成する山々がぐるりと見える。
見事な盆地振りである。

高石垣を上から見下ろすと堀との間に犬走がある。
しかもかなり幅が広い。
名古屋や大坂といった大都市の築城ならいざ知らず山深い篠山に大名が20人、わらわらと集まって1年足らずでこの城を造った。
結局、敵など来はせずに淡々と譜代大名が城主を務めた。
青山氏が最も長く維新を迎え、新政府軍にあっさりと恭順する。
青山氏というのは三河譜代の徳川家臣であった。
本多、酒井といった面々ほどの活躍は広く伝わってはいないのだが東京は青山という地名は元亀天正から家康に近侍した青山忠成にちなむ。
確か家康に「おぬし馬で駆けた分だけ屋敷にするがよい」といわれて駆け回ったのが青山辺りだったというのではなかったか。

篠山城の三の丸、内堀と外堀の間には幼稚園と小学校が鎮座している。
余所者からすれば「何もこんなところに造らないでも」と思ってしまう。
折角の馬出は南側のみがほぼ完全に残っているのみである。
まあかつての城跡に市役所やら県庁やらを建てまくるのは全国的な傾向ではある。

ここを最後にこの九州・長州の旅が終わる。
まことにのどかな篠山盆地の山々をながめながら11日間にわたる城巡りを想ったりした。
 

Photo
篠山城下、博物館展示より

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大手の虎口、鉄門があった

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大書院

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高石垣、犬走がみえる

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石垣の刻印




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