そーは云っても、こっちが調べられる範囲って知れています。
既にこれだけの論点纏めている訳ですから、何も とは思いますが、それはそれ少しは採掘面からのアプローチを。
先ず、沖見初炭鉱が何故数年も掛かって着炭せざるを得なかったか?
調べてみると、海底での地質図(炭層図)がありました。
当然当時これだけ詳細なモノがあったとは考えられませんが、この図からもいろいろ推測できるのでは?
そー炭層が書かれている地質平面図に断面図。
これで分かります、何故鈴木商店の沖見初炭鉱設立後、何年に亘って出炭出来なかったか?
坑道入口から主要炭層までの距離が長すぎます。
そーです、多分に基盤の変成岩が分布していたため、潜頭露頭が地表より離れており、
隣接の東見初炭鉱と違い、着炭するまで坑道を長く掘り進めばならなかった。
結果、坑道建設費用は掛かるし、着炭後もその距離に比例し運搬コストが生じることとなります。
また、鉱区面積が他炭鉱に比べ広いと云われていますが、西側は既に東見初炭鉱の鉱区、
とすれば東域に鉱区が広がっていたと考えられます。しかし、東域には石炭層の分布は認められません。
となると、鉱区の広さに比べ埋蔵量は少なく、着炭後も南域にのみ採掘域を伸ばすしかありません。
当然、運搬距離、鉱夫、作業員の移動距離も伸び、実務の採炭時間の減少、コスト増加に繫がります。
上図は坑道等の最終図面で、東見初炭鉱との併合後になりますが、東域への坑道の展開は見られず、採炭していないことが分かります。
この図から東見初炭鉱の出炭に、この域がどう影響していたか、昭和元~20年沖の山・東見初炭鉱出炭一覧表から類推してみましょう。
先ずは、昭和6,7年の海底炭鉱の数、4鉱が3鉱に。
多分に沖見初炭鉱が東見初炭鉱に統合されたことによる炭鉱数の減少。
この時点での出炭量の変化、沖ノ山炭鉱は微増ですが、東見初炭鉱は6.5万tの増加です。
沖見初炭鉱の昭和4,5年の出炭量は10万~16万tです。
単純計算で閉山前の約4~6割の出炭がこの域からなされ、東見初炭鉱の出炭量の増加に繫がったのでは と考えられます。
経営者が替わった時期としては、マーマーの出炭量だったのでは?
その後の東見初炭鉱の出炭量、沖の山との比較で見てみましょう。
沖ノ山炭鉱は、昭和元~20年、概ね90~120万tの出炭量、
東見初炭鉱は同時期、30~100万tの出炭と、かなりの変化が見られます。
この変化、かなりの部分が沖見初鉱区の出炭が加味された とも考えられます。
出炭比率で見ると、沖ノ山炭鉱、昭和元年を1とすると、最大約2割のアップ
同様に東見初炭鉱、最大4倍弱のアップと伸び率の差、歴然です。
この変化、かなりの部分が沖見初鉱区からの出炭が影響している?
ちょっと云い過ぎか、あんまり地質は良くない との資料もあった筈。
しかし、東見初炭鉱の鉱区面積からみても、その伸びしろやっぱこの沖見初炭鉱鉱区による影響否めません。
思った以上に、出炭量に貢献したのでは・・・
コスト的には?な所ありますが、・・・・
と云ったところで、この憶測話終わります。
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