九州説では、どこが候補地?
イロイロある様です、畿内説との違い、明確です。
ある資料では、こんな遺跡を挙げています。
平原1号墳、須玖岡本遺跡、祇園山古墳、津古生掛古墳、那珂八幡古墳が候補地?
取りあえず各遺跡、どんな墓、古墳? 見てみましょう!!
・平原1号墳
幅2m前後の溝がめぐる18×14mの長方形の周溝墓。
破砕した42面分の銅鏡が発見され、うち径40.5cmの内行花文鏡4面が最大の鏡で、これは日本一の巨大なものである。
これ以外にも多数の土壙や柱穴、井戸が発掘されている。
時代は三世紀前半~四世紀とみられ、単独葬の方形周溝墓としては九州最古である。
・須玖岡本遺跡
3.3×1.8×0.3mの花崗岩の大石の下から多数の遺物が発見され、この大石の横に1.4×1.2×0.5mの花崗岩が立っていた。
大石の下に合せ口甕棺が斜めに埋められ、その内外に副葬品が置かれていた。
その遺物は、前漢鏡30数面、細形・中細形銅剣、銅戈、銅矛計8本以上、ガラス璧、ガラス勾玉、管玉などである。
またこの周辺には多数の甕棺が埋置されている。
時代は弥生中期とみられている。この周辺にも1000基ほどの甕棺が発見されるが、副葬品のある甕棺が集中するのはこの遺跡のみで、奴国王の墓にふさわしい。
・祇園山古墳
高良山の西麓の丘陵部に位置する方墳で、一辺24~25m、高さ6m、葺石をもち墳頂に赤く塗った巨大な箱式石棺がある。
遺物は盗掘で何もなく、墳丘の裾部周辺に各種の埋葬施設、計52基がある。これらの施設は方墳を中心に順次作られたと考えられている。
本古墳は筑後地区最古の大型古墳とみられ、四世紀初頭につくられたとみられる。
・津古生掛古墳
小郡市の丘陵頂部にあり、帆立貝式の前方後円墳で、この地区ではもちろんのこと、全国的にも最古式に属する。
周溝は後円部をめぐって、くびれ部にあり前方部にはない。
墳丘主軸長は約33m、後円部径約28m、前方部の長さ約5m、くびれ部幅約6.5m、前方部先端幅は約12m、内部主体は木棺を東西に埋めている。
遺物は舶載の方格規矩鳥文鏡一面とガラス玉、鉄鏃など、東側木口付近から鉄剣、棺外からも鉄鏃が出土、矢筒の織物片もでている。
墳丘の裾には各種埋葬施設が10基ある。
・那珂八幡古墳
古墳時代発生期・出現期の前方後円墳で、 神社境内で弥生時代の銅戈鋳型が発見され、神社がある独立丘陵が帆立貝形古墳であることが判明した。
古墳の位置は、入り江に半島状にせり出した丘陵の上にあったと考えられる。
後円部から見つかった2基の主体部のうち1基から、三角縁神獣鏡などの初期古墳に典型的な遺物が出土した。
墳丘は、長さ約75m、後円部の直径約48mで、周溝を有していたと考えられる。
古墳造営当初の埋葬主体と考えられる1号は大部分が社殿の真下にあるため、規模・副葬品は未だ不詳である。
1号の北側に位置する2号も、一部が社殿の真下にあったが、長さ2.3mというさほど長大ではない割竹形木棺を石槨を造らず
墳丘に直接埋葬した直葬形式をとっていることが確認されている。
木棺内の土倉からは朱などが検出され、棺内から三角縁神獣鏡と勾玉・管玉・ガラス製小玉が出土した。
棺掘り方からは赤色顔料が塗布された土師器の高坏が出土している。
出土した三角縁神獣鏡は直径約21.8cmの三角縁五神四獣鏡で、同笵鏡が京都府や岡山県から出土しており、鏡面とチュウの部分に繊維が残っていた。
鏡面の繊維は平絹、チュウの繊維は荢麻であることが判明し、絹布に包まれた状態で副葬されたと考えられている。
大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差があるが、同じ時期のものと推定され、初期ヤマト政権との関連が注目される。
古墳の被葬者は、当時この地を支配した首長であり、福岡平野全体を支配した北九州の中小首長であると考えられている。
上記の各遺跡は、その位置、作られた時代から、残念ながら邪馬台国の卑弥呼の墳墓としてはどーかな?
内容からは、ほぼ同時代の周辺諸国の王墓とみられる感じ。
そんなところで、卑弥呼の墓、九州のどこかとは思われるが、実際どこにあるのか、まだまだ謎は解かれていません。
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