-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その4)

2023-08-07 10:00:00 | 歴史

【繋沢に学校があった】

 さて、話を繋沢全体に戻します。六沢の同級生が、「昔は(繋沢観音堂)に学校があったと聞いた」と教えてくれました。しかし繋沢観音堂と学校を直接結び付ける資料は見つかりませんでしたが、「常盤小の百年」という本に常盤地区の昔の学校に関することが記載されていました。それによると、明治7年に学校制度が始まり旧村ごとに学校が置かれ、常盤地区の六沢村以外は既存の建物を校舎にし、六沢村だけは新築したそうです。六沢の学校では江口皐天氏が教員に就いたとあります。「新築」と「江口皐天」の二つの言葉が、「最上三十三観音」というホームページに「第23番六沢」に結び付きました。観音寺を復興(新築)した時の円照寺住職は「江口皐天」でした。観音寺が廃寺となって観音堂が新築されたのは明治初めと「お城山史話」にありましたので、学校に関わる人物と建物の時代が完全に一致します。

 観音堂は「六沢学校」も兼ねて新築されたと思われます。逆に学校制度が明治7年に始まっていますから、観音堂が建てられたのは、明治7年ごろと推察できます。昔は村にあるお堂は、村人の集会場所でもありました。そのころ学校を建てるにも村人の負担でしたので、観音堂と学校を別々に新築することは二重の負担になりますので、どこの村でも既存のお堂などが使われたようです。六沢は新築した観音堂が学校に使われたと考えると、私の同級生が話してくれた「繋沢に学校があった」という話は本当だったことになります。ここのお堂の敷地は広いし、子どもたちが遊ぶ広場も十分な広さがあります。六沢の子どもたちは恵まれた環境で勉強できました。

 

【椿】

 ②の花木については、椿を別途に投稿するときまでお待ちください。

 

【あらためて延沢軍記】

 ③の「延沢軍記」は、既に何度も出しましたが。あらためて「延沢軍記」を簡単に説明します。「延沢軍記」とは野邊沢家に係る事柄について、地元に伝えられている9冊の書を尾花沢市史編纂委員会がまとめたものです。9冊は、それぞれ「「延沢軍記」(龍護寺本)」「野邊沢軍記(塚田本)」「野邊沢軍記(片仮名本)」「延澤観阿弥嶽濫觴記」「野辺沢記」「野邊沢城記」「延澤城沿略記」「野邊沢家日野氏系譜」「延澤古城山天人清水之記」です。どれも、元和八年(1622年)の最上家が改易され、新たに山形藩を引き継いだ鳥居家が支配していた寛永年間(1624~1643年)に野邊沢の地名が延澤又は延沢に変更されてから書かれたものが多いのですが、延澤城沿略記は明治28、29年、野邊沢家日野氏系譜は明治40年、延澤古城山天人清水之記は大正4年です。どの本でも野邊沢と延澤又は延沢が混在しています。野邊沢家の名称は変更ないはずなのに、地名であった野邊沢が寛永年間に延澤(又は延沢)に変わったために、姓である野邊沢までもやたらと延澤又は延沢が誤記されています。歴史に専門的に取り組んでおられる最近の方々も、「延沢軍記」で間違った認識をしてしまい、「延沢」姓を使っている例が多数、見られます。初歩的な間違いですので訂正されるべきものと思います。特に公的な印刷物などを作る際は、行政組織として十分に注意が払われるべきものと思います。人は必ず間違います。間違いの多い私が言うのですから、間違いありません。はて、変ですね。

 さて、これら延沢軍記などの古文書は書き写して所蔵している場合が多いようで、大まかな内容として共通していますが、細かく見ていくと結構、文字が異なっています。今回のブログの繋沢シリーズでは、全ての古文書の全部を並べても意味がありませんので、その中からより正しく書き写されたと思われる一つだけを取り上げています。


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