-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

二ツ森、二鞍山、荷鞍山に登りました

2022-11-20 16:40:51 | 近況報告

 これまで、畑沢から眺められる山を次々と登って来ました。総ての山に登りたいのですが、登山は一週間に一回どころか一月に一回もままならなくなっています。一年に一回か二回がいいところです。

 今回は尾花沢市の二ツ森に行きました。実は昨年に登る決心をしたのですが、ようやく二年目に実現することができました。

 令和4年11月12日(土)、快晴です。登山口に来たのですが、失敗に気づきました。二ツ森の特徴である二つ並んだ峰(双耳峰 そうじほう)の片方の北峰しか見えません。撮影するには近づきすぎたのです。南峰は林によって遮られています。この状態が鞍部に近づくまで続きました。

 

 しょうがないので後方を振り返って、パチリ。牧場のなだらかな地形が見えます。この場所の南方にも宝永牧場や尾花沢から銀山温泉へ向かう途中にもなだらかな地形があり、昔の地滑りがあった場所のようです。

 

 牧場の末端部になりました。北峰を遮って、奥に断崖絶壁の岩山が見えてきました。北峰と南峰の間に聳えている息子森だそうです。

 

 息子森に近づくと岩肌がはっきりします。典型的な柱状節理があります。柱状節理と言えば、尾花沢市の最高峰、御所山の麓にある層雲峡には、材木岩と呼ばれている広大な岩があります。私のちっぽけな脳みそでは、両者を同一にしてしまいますので、「山形県表層地質図」をネットで確認してみました。二ツ森の表層地質は「流紋岩~安山岩」、層雲峡のそれは「流紋岩」となっていました。二ツ森の地質の表現はどこか判然としない表記です。私には流紋岩と安山岩の区別ができませんが、成分的にはかなり近いもののようです。まあ、素人の私には、両者は似たようなものと解釈すれば十分かなと思います。

 因みに畑沢の大平山と立石山の上半分も流紋岩ですが、私の目では、二ッ森で見た流紋岩とは全くの別物です。畑沢の流紋岩には小さな長石のような結晶が散在しています。

 

 暫くして、石仏が見えました。「防火安全」「太陽不動大妙神」と刻んであるようです。珍しい石仏です。

 

 ここからは林の中に入り、木々の枝が頭上をも覆っています。もう少し早く来れば、きっと美しい紅葉に囲まれた登山道になっていたでしょう。 

 

 急な坂を息を切らしながらも頑張ったので、双耳峰の真ん中、鞍部に到着です。左が北峰です。その登り口に何方かが立っています。この日は快晴なうえに土曜日だったので、多くの登山客がいました。鐘も見えます。

 

 鞍部から遠くの葉山と月山が見えます。月山は既に雪化粧していましたが、この写真は「心の目」で見る必要があります。せめて偏光フィルターを使えば、いくらかはっきりするのですが、お金が惜しくてまだ買えません。

 

 鞍部からは北峰と南峰に登れます。低いのは写真の南峰。低い方にしました。

 

 南峰の山頂に近くなってから、北峰を仰ぎました。見るからに険しそうです。ガレ場もあります。北峰に登ってきた人の話によると、このガレ場の右側に登山道があるのだそうで、斜面があまりにも急なのでかなり長い区間をロープで伝う必要があるそうです。やっぱり、北峰に行かないでよかったと思いました。

 

 頂上に石仏がありました。いくつかの文字が見えにくいので、県立図書館から玉野歴史研究会が編集発行した「昭和からの玉野」を借りて参考にしました。石仏の表に「大正十三年」「二鞍山猿田彦大神」「新八月丗一日」であることが分かりました。裏には「玉ノ村粟生」「開山者 菅藤與次郎」とあります。

 何故「猿田彦」なのかが疑問に持ち、私の近所に住んでおられる尾花沢市出身の先輩に猿田彦についてお聞きしました。先輩は「猿田彦は道を安全に案内する神様」と教えてくださいました。新たに山頂に道を作って開山するにあたって猿田彦にすがって安全を祈願し、併せてその後に登山する人々の安全も祈願したということでしょうか。

 昭和2年に鈴木勇三郎氏が著した「玉野村史」によると、開山者の菅藤與次郎氏の記述がありました。当時、玉野地区の尋常小学校の職員や区長代理を務めていた、玉野村の有力者の一人だったようです。なお、鈴木勇三郎氏は、玉野尋常高等小学校の職員だったようです。そして、昭和2年とは、各地の学校が郷土の歴史や産物などを一斉に調査した時期のようです。この時に常盤村でも尋常高等小学校の畑沢の大先輩である青井法善氏が「郷土史之研究」を著しました。

 さて、もう既にお気づきと思いますが、石仏ではこの山を「二鞍山」としています。二ツ森ではありません。そもそも、二ッ森という山の名前は、私が小さい頃は耳にしたことがありません。「ニグラヤマ」の発音でした。文字にすると「荷鞍山」です。実際、この山を見ると、馬の背に荷物を載せるために装着する荷鞍そのもので、決して、二つの鞍ではありません。

 

 南峰の山頂から畑沢方向を写しました。写真の中央から少し右側に周囲の山々よりも幾分、高い二つのピークが見えます。そのうち左が甑岳(1,016m)、右が大平山(814m)です。畑沢の集落は大平山の右下になりますが、山々の下に埋もれています。つまり、畑沢の集落からは二ツ森は見えないのです。現道の背炙り峠や古道の背中炙り峠に登ると見ることができます。畑沢の集落は山々に囲まれているので、遠い山は、最上町の禿岳以外殆ど見えません。それでも、私がニグラヤマの記憶が強烈なのは、私の父が玉野地区に生まれ育ったので、父から何度も聞かされていたからかもしれません。玉野地区では二ツ森が間近に迫っていて、特徴的な双耳峰は印象深ったはずです。

 

 さて、元々は「荷鞍山」だったのに、何故「二ツ森」となったのでしょうか。同じ様な事が畑沢を流れる川の名前にも生じています。江戸時代から大正時代まで「畑沢川」だったのが、昭和の初めには「千鳥川」になっていました。畑沢川は秋田県、福島県、千葉県にも見られますが、どれも「畑沢」という地名か又は「畑沢」が含まれる地名が存在しています。尾花沢市畑沢の畑沢川を敢えて千鳥川にする理由があったとは思えません。一方、千鳥川の名称は長崎県雲仙市、兵庫県加東市、宮城県石巻市にありましたが、どの地域にも「千鳥」らしき地名は見当たりません。それらの千鳥川も突然に名称変更させられたものかと同情したくなります。

 二ツ森に話を戻します。「二ツ森」の山の名は、青森県と秋田県の境、岐阜県にありました。どちらも千m以上の高山で、山頂部だけが分かれた双耳峰です。尾花沢市玉野地区の二ツ森とは雰囲気が全く異なります。やはり荷鞍山には「荷鞍山」がぴったりです。荷鞍山を二ツ森に変更したときに、地元の要望があったとは思えません。国土地理院の前身であった旧陸軍参謀本部陸地測量部などによって、畑沢の千鳥川と同様に突然に変更させられたものと推察したくなります。


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