1923年の関東大震災を受け、東京の盆栽業者が埼玉県にまとまって移住し形成された「大宮盆栽村」を、
多くの愛好家や観光客が訪れている。 にぎわいや業者の相次ぐ撤退など浮き沈みを経ながら、現在は若
者や外国人のファンを取り込んで客層が拡大。 関係者は100年前の災害から新天地に活路を求めた
先人に敬意を払い、盆栽村の発展を願っている。
地元の業者らが2002年に出した記念誌によると、現在の東京
都文京区周辺を拠点にしていた業者数人が、大震災を受けて新た
な土地探しを始めた。関東ローム層のいい赤土で、水などの条件
もいいとして2年後の1925年、現在の場所に7つの「盆栽園」
による盆栽村を開いた。
移住した盆栽園「曼青園」を紹介した書籍には、大震災で「見渡す限り焼け野原になったが、幸い園は焼
けなかった」「敷地に近所の人が家財道具ごと避難してきたので、水をやれずに盆栽が枯れてしまった」
との記述がある。 "田口学芸員”によると、昭和初期の最盛期は35の盆栽園で構成したが、戦争で男
手を取られ、廃業する業者も続出した。 一方で高度経済成長期は、大震災を教訓に幅を広くした道路
に、観光バスが列を作ったことも。
「近年のにぎわいはこれまでと違う」。 大宮盆栽協同組合の"浜野理事長"は笑顔で語っている。 「若者
や外国人たちに裾野が広がった」。 田口学芸員によると、美術館のフェイスブックの登録者6万人以上
の約9割は外国人だ。 29年に開園した「九霞園」の"村田さん"は「盆栽村という、分かりやすい名前
を付けてくれた先人たちに感謝したい」。
「藤樹園」の園主でもある"浜野理事長"は「盆栽は育てる人の心が反映される。 リレーのように、盆栽を
愛する人が増え、次の世代に受け継いでいってほしい」と話している。
我が家の田舎の父親も大の盆栽好き。 残念ながら後を継げなかったです。
多くの愛好家や観光客が訪れている。 にぎわいや業者の相次ぐ撤退など浮き沈みを経ながら、現在は若
者や外国人のファンを取り込んで客層が拡大。 関係者は100年前の災害から新天地に活路を求めた
先人に敬意を払い、盆栽村の発展を願っている。
地元の業者らが2002年に出した記念誌によると、現在の東京
都文京区周辺を拠点にしていた業者数人が、大震災を受けて新た
な土地探しを始めた。関東ローム層のいい赤土で、水などの条件
もいいとして2年後の1925年、現在の場所に7つの「盆栽園」
による盆栽村を開いた。
移住した盆栽園「曼青園」を紹介した書籍には、大震災で「見渡す限り焼け野原になったが、幸い園は焼
けなかった」「敷地に近所の人が家財道具ごと避難してきたので、水をやれずに盆栽が枯れてしまった」
との記述がある。 "田口学芸員”によると、昭和初期の最盛期は35の盆栽園で構成したが、戦争で男
手を取られ、廃業する業者も続出した。 一方で高度経済成長期は、大震災を教訓に幅を広くした道路
に、観光バスが列を作ったことも。
「近年のにぎわいはこれまでと違う」。 大宮盆栽協同組合の"浜野理事長"は笑顔で語っている。 「若者
や外国人たちに裾野が広がった」。 田口学芸員によると、美術館のフェイスブックの登録者6万人以上
の約9割は外国人だ。 29年に開園した「九霞園」の"村田さん"は「盆栽村という、分かりやすい名前
を付けてくれた先人たちに感謝したい」。
「藤樹園」の園主でもある"浜野理事長"は「盆栽は育てる人の心が反映される。 リレーのように、盆栽を
愛する人が増え、次の世代に受け継いでいってほしい」と話している。
我が家の田舎の父親も大の盆栽好き。 残念ながら後を継げなかったです。