二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

無残…?

2007-11-21 11:16:08 | 徒然に想う
ぎょっとした。目に飛び込んできたものが、普通でない。むごい、ひどい、可哀想。

庵主の目には最初そう写った。どこか引っかかるものがあって、歩くペースを落とし、ゆっくり考えた。はたして、むごく・ひどいことなのだろうか。

まず、食べたことで生を持続できた者たちがいる。それは特別なことでもなく、我々でさえ毎日やっていることとなんら代わりがない。いわゆる食事をしただけだ。食べたほうにも食べられたほうにも、食事という行為には酷いも惨いも何もない。生き物の生命の持続の過程のある一瞬に過ぎない。

ならば、その跡をみて、酷い惨いとはどういう了見だろう。昔習った弱肉強食とか、食物連鎖を想い、自然の過酷さを嘆きたいのだろうか。どうして、そういった感情的な言い方、受け方をするのだろう。

自分をそのような自然に対して傍観者にしている? 人間は特別で弱肉強食の最高点に位置しているので、傍観を許されていると思い込んでいるからじゃない? でも、人間もその自然の中にいるでは? 読むな、読んだらすぐに忘れろと福岡正信は言う。が、考え始めると…、彼の言いたいことを理解したくなる。

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