二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

「この町が好きだから」 ― 原理原則

2018-01-21 08:12:01 | 徒然に想う

この町に来て2年、ますます好きになってく。それは、様々な空の様子を映す川、霧や雲が谷筋に入り込んで幾重にも重って見える山々、オンちゃんらやオバちゃんら、取り巻く環境が素敵だから。ただ、思うは、その「環境」の持続性。これからも「継続」してくんだろうか。それは、田畑・果樹園の放棄地化、お祭り存続の危機など、実際、目に耳にすると…。で、考えてみた。「継続」は必要か。

沢山の汗で出来上がった畑地は長い時間かけ自然に戻って行けばいい。これまで培われてきたお祭りや技術・文化は無くなっても仕方ない。町は無くなっても、統合合併という形で残るだろう。これらは一つの答えで、今の対峙している方たちの当事者性を慮れば、そういった「継続」を止める決断も理にかなってる。次に、その「当事者」から離れ、「継続」の「対象」となるものが、いったい誰のものなのかに目を向けてみた。今を生きる当事者としてでもある我々のものか? あるいは、将来の者たちなのか? 

ネイティブ・アメリカンの格言を読んでいると、いろいろ学ぶことが多い。

  • 土地は先祖からの授かりものではなく、子供たちからの預かりもの。
  • お年寄りと子供を切り離してはならない。彼らを引き離すことは過去と未来を断つことと同じだ。
  • なにをなすのであれ、今から7世代先後の子供たちへの影響を考慮して行われなくてはならない。

圃場から川を眺めたり、山から街に出る際の光景に見入ったり、集落を遠目にお祭りのことを思い返したりすると、暖かな、幸せな、良かったなぁとの思いに包まれる。これから来る時代でも、誰かが同じように佇み、眺め、楽しむ。そうあってほしい。だから、次の世代に残したいと思う。今、「継続」を止めたら、その新しい世代たちができなくなる、彼らから奪うことになる。だから、「継続」を止めてしまうわけにはいかない。そのために、私は何ができるだろう。

 

 

 

今日の一枚:横倉山へ登る道、途中にある織田公園から、町の中心を望む。

もう一枚:同じ場所、黒森山、五在所山を望む。


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