二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

弥勒菩薩半跏像の目

2014-12-18 12:14:03 | 徒然に想う

神社の展望台に着くのがちょうど夜明けだと、思い浮かべることがある。子供のころ家にあったある旅行社のカレンダー。広隆寺の弥勒菩薩半跏像の顔がアップで映り込んでいた。不思議な笑みをたたえ、何を見ているんだかいないんだか分らぬ、あの目。訳が分からぬままに子供心に記憶した。

あるとき、突然、その目を思い出したのだ。あれはこの形を残そうとしたんじゃないだろうか。闇が消え、今日一日を迎えられる幸福感に包まれ、活動しはじめられる。これが毎日、今日も明日も明後日も未来永劫続いて欲しい。その望みを、この形を仏像の目という形で掘り込むことで、表現しようとした。

タリバンは報復としてパキスタンの学校を攻撃、結果141人(ほとんどが子供)が命を落とす。どこにどのような大義名分が立つのかわからぬ。ただ、宗教やゲリラ掃討作戦で片付けられるようなことではないように思える。「親の気持ち子知らず、この気持ち親知らず」のようなものがあるではないか、どうも「力」を振るう側にはそうでない側の気持ちが理解できないということかもしれない。

誰にでも等しく朝は迎えられなければならない。141もが突然そのことから断たれた、断たれてしまった。これがまた火種となり、火車となり広がる。偶像はご法度だとしても、この夜明けの風景は誰にでも平等に見られなければならぬ。そのためには、いかなる「力」も報復も要らない。…そうか、弥勒菩薩半跏像は、それだけでない、仏様の像の多くはえも言えぬ慈愛に満ちた夜明けの様子の目を持たれている。 それは、突然断たれたとしても、仏は生ける物だけではなく全て平等に夜明けを見せられていると示唆する。141の魂はどこかで見ているってこと、か…。そう思えば救われなくもない。夜明けは、たとえ無神論であっても、妙に宗教的にさせる。

 

今日の一枚:神社の展望台から今朝の様子、6時頃。月齢26の月も写し込めた。

≪静けさも 氷りつきしぞ 夜が明くる≫

温度を測ると氷点下、寒いわけだ。

 


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