私が生まれたのは、あべのの日赤病院で帝王切開でと親から聞いています。
生まれたとは、守口市の大宮通りにあった長屋の1軒(持ち家)に住んでいたと聞いています。
当時、父親は、大阪に本社がある運送会社では一番大きな会社である大阪梅田運送で営業の仕事をしていました。
そして、私が2歳の時に、阿波座営業所の所長に任命され、阿波座営業所の2階に住んでいました。
そして、4歳の時に本社に転勤となり、住吉区苅田の8軒長屋の1軒(持ち家)に引っ越したわけです。
その間、2年間ほど、阿波座に住んでいたわけです。
阿波座での出来事としては、3歳の時の大やけどがあります。
朝潮橋にある大阪最大の遊園地・港遊園に行った翌朝起こりました。
当時、大阪地下鉄中央線の延伸工事で夜中でもボーリングする音が。現在でも覚えています。
明け方の何時間しか工事が中断されなく、その時に、両親は熟睡していました。
私は、一人で、ドアを使って、エレベータガールごっこをしていました。
両親に連れられて、心斎橋の大丸やそごうによく行っていたからです。
そんな時、エレベータガールがしているように手袋をはめていて、手袋を落としたのです。
落としたのが、ガスストーブとドアの間。ガスストーブには、ヤカンがかけられていました。
ヤカンをどかして、ストーブとドアの間に落ちた手袋をひらおうとしました。
ヤカンを持った途端、熱くて、手を放してしまいました。
そして、大やけどを。母が慌てて、パジャマを脱がした時、右腕の一部の皮膚がパジャマ側にくっついていたのを覚えています。
そして、3か月くらい入院。完治しましたが、右腕に今でもケロイドが残っています。
3歳の時の一番の思い出は、同じ年代の子供が街にいなかったことです。
家の近くの公園に親に連れて行ってもらった時のみ、同じ年代(3歳)に会えて、うれしかったのを覚えています。
サムハラ神社のそばにあるこの阿波座南公園がその公園だと思い、園内を散策しました。
そして、商用の電話がかかってきて、しゃべっていました。
30分くらいしゃべっていて、暗くなりました。
昔住んでいた場所を見ようと行きました。
なにわ筋と中央大通りとの交差点の角です。
現在の吉野家阿波座店の場所です。
阿波座に住んでいた時、靭公園によく行ったと聞かされていましたが、3歳の時なので、記憶にありません。
プロテニスの大坂なおみ選手も3歳の時は、この辺に住んでいて、靭公園のテニススクールにに通っていたとされています。
そして、私の記憶にある公園は、家から東に少し行ったところにありました。
記憶通りに、東に進むと、公園がありました。
3歳の時、ここで、同世代の子供とあって感激したのを思い出しました。
この児童公園は、新阿波座公園というようです。
公園を散策。
そして、中央通りに出て、本町駅へ。
3歳の時の記憶として、今でも、強烈に覚えているのは、中央大通りにずらりとバラックやテントが並んでいて乞食のような人が何千人もいたことです。
皆さんが想像するホームレス村との一番の違いは、それらの人か家族単位で住んでいることです。
ガス・電気・水道もない場所に乞食同然のひとが大量に。
特に、印象に残っているのは、同世代の子供。みんな裸同然。
ここに住んでいる人は、路上で、ご飯を作って食べています。また、5歳くらいの子が、乳児を背負っています。子供は、みんな会過ぎたなくて、やせ細っています。子供心なりに、自分が持っているお菓子を分けてあげたいと思っていました。
その中をよそ行きの服を着せてもらって、両親に手をつないでもらっている私が歩いていると、そこにいる子供たちが全員私を見てます。羨望のまなざしで。。
そのまなざしを受けるのがとっても嫌だったのを覚えています。
そして、自分がちゃんと家に住めて、服を着せてもらって、ここにいる子供たちと比べて、恵まれた境遇だなぁと感じていました。
昭和36年・37年ごろの西区阿波座の光景です。
当時は、なぜ、ここ(中央大通り沿い)に、バラックやテント住まいで乞食同然の人が何千人も一家で住んでいるんかわかりませんでした。
その後、わかったのは、中央大通り沿いには、満州引揚者が住んでいたという事です。
満州から引き揚げてきた日本人が住んでいたのが、大阪西区の中央大通りというわけです。
私がシャープに勤めていた頃、南生駒に両親が持っていた宅地80坪を隣の家の人が欲しいと言ってきたので売りました。
その人は、お医者さんで、医は算術としている典型的な人でした。
金のことしか考えない医者といるもなんだなぁと思いました。超豪邸に住んでいました。
が、その人の父親は、満州引揚者。
そうです私が見ていたこじき同然の暮らしをしていた人でした。
子供の時の乞食同然の暮らしをしていたので、大豪邸に住んでやると言う意思が人一番強いのだなぁと思えました。
私は、金銭欲がないと人からよく言われます。
それは、幼い時から、中流の暮らしをしていたからだと思われました。