遊戯(ゆげ)

世の中は、なるようになるわ。
あきらめないで、悠然と生きる事を楽しむ・・・・
それが遊戯(ゆげ)の心です。

福沢諭吉 名言集1

2015-01-09 | Weblog


日本人も西洋諸国の人民も、
同じ天地の間にあって、
同じ太陽、同じ月・海・空気を共にし、
互いに通じ合う人情を持つ
人民ではないか。

余った産物は与え、
外国に余っている物産はもらい、
教え合い、学び合い、
恥じたり自慢したりせず、
互いに相手国の便利を考えて、
その発展を願うべきであろう。


学問を志した以上、
大いに学問に励むべきだ。

農業に就くなら豪農に、
商業に入るなら
大商人になりたまえ。

学生は小さな安定に
満足してはならない。

粗衣、粗食、寒暑に耐え、
米をまき、薪を割り、
それでも学問はできるのである。


かくして、人たるものは、
他人の権利の妨げさえしなければ、
自由に行動すべきで、
他人の利害に関係せぬ以上は、
はたからあれこれ
口を出されるいわれはない。

好きなところへ行き、
いたいと思う場所にとどまり、
遊ぼうと働こうと、
遊ぼうと寝ていようと、
それは本人の勝手なのである。


自由とわがままの違いは、
他人を妨げるかどうかである。


学問の本質は、
「学問を自分がどう活用できるか」
にかかっている。

現実社会に応用できないような学問は、
無学と言われても当然である。


あまり人生を重く見ず、
捨て身になって何事も一心になすべし。


人に貴賎はないが、
勉強したかしないかの差は大きい。


賢人と愚人の違いは、
学ぶか学ばないかによって、
決まるのである。


古典の「古事記」を暗記していても、
こんにちの米の値段を知らないのでは、
日常生活の知識すらない男というほかない。

中国の古典の奥義をきわめても、
商売のやり方を知らず、
取引ひとつできぬようでは、
収支の知識の問屋にすぎない。

それではめし食べるを辞書であり、
国のためには無用の長物、
国家経済にとっては、
有害な穀潰しと言っていい。

(※穀潰し…食べるだけであとは遊んでいる者)


他人の迷惑にならない
「欲望」は、
すべて善である。


努力は、
「天命」さえも変える。


やってもみないで、
「事の成否」を疑うな。


自分の力を発揮できるところに、
運命は開ける。


世間の物事は、
進歩しないものはすたれ、
退かず努力するものは必ず前進する。

進みも退くもせずに、
ぐずぐず止まっているものなど、
あるはずがないのである。


法は「簡にして厳」
であるべきである。


自分の考えだけで、
他人を評価してはならない。


顔色や容貌を、
いきいきと明るく見せることは、
人間としての基本的なモラルである。

なぜなら人の顔色は、
家の門口のようなものだからである。

広く人と交際して、
自由に付き合うには、
門をひらき入口を清潔にし、
客が入りやすくすることが大事である。

ところが、本心は人と交際を深めたいのに、
顔色に意を用いず、
孔子の格言を信じて、
ことさら渋い顔つきを示すのは、

入口にガイコツをぶら下げ、
門前に棺桶を置いているようなものである。
これでは誰も近づかなくなる。


理想が高尚でなければ、
活動もまた高尚にはならない。


理論と実行とは、
寸分の食い違うことなく、
一致させねばならない。


人間の行動には、
おのずから制約がなくてはならない。

また行動するには、
時と場所をわきまえていなくてはならぬ。

道徳を説くことが大切だからと言っても、
楽しい宴会の最中に
突然説教をはじめたら、
笑いものになるのが落ちだ。

場所柄や時節柄をよくわきまえて、
行動を制御するのも確かな判断力による。

行動だけが活発で判断力にかけているのは、
舟に舵がないようなものだ。

役に立たぬどころか、
害を及ぼすことの方が多い。

福沢諭吉の名言 一覧
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