eラーニングの現状と展望

ネットラーニングHD、ネットラーニング、WIWIW、Phoenix Consulting、各代表取締役 岸田徹

日々更新型eラーニング

2009-05-21 09:36:39 | Netlearning,Inc.
eラーニングの特徴のひとつは、コースウエアの内容を日々更新できることです。

たとえば、その日の株価をもとに学習する金融関係の講座をつくることもできます。最新データを学習の素材にすることができるのです。

昨日ネットラーニングが緊急開講したeラーニング講座『30分で学ぶ 新型インフルエンザの基礎知識と対策』も、日々内容を更新するeラーニングです。

首都圏で感染者が出たり、政府の方針がつぎつぎに変更になったりするなかで、最新の状況に対応した学習に日々更新されています。



新型インフルエンザ対策講座、本日開講!

2009-05-20 22:38:16 | Netlearning,Inc.
ネットラーニングは、eラーニングの『30分で学ぶ 新型インフルエンザの基礎知識と対策』を、本日緊急開講いたしました。

セミカスタマイズもいたします。

また、政府の新しい方針などを日々反映させ、たえずコースを最新化して提供いたします。ASPならではの特徴をいかしています。

なお、報道によれば、きょう、都内ではじめて感染者がでました。感染者は八王子市在住で川崎市の高校に通う女子生徒で、今月11日から18日までニューヨークに滞在していたそうです。

対策がいそがれています。






eラーニングと言語問題の解決

2009-05-19 13:03:19 | eLearning
国際的な言語の違いの問題は、ネットビジネスにとって、大きな課題となっています。

検索の問題を考えるとわかりやすい。日本語でながれている情報にくらべて、英語の情報は膨大な量になります。中国語の情報も急増している。現状では、言語がちがえば、それぞれ別の世界といってよい状況にあります。googleの理念にもとづけば、これは解決すべき大きな課題です。

eラーニングも同じような課題をかかえている。いかに、多言語にまたがる世界のeラーニングを解決していくのか。

まずはじめに、オーサリングの仕組みがあります。同じプラットフォームをつかって、米国人も、中国人も、韓国人も、そして、さまざまな言語の人々が共同で作業する環境をどのようにつくるのか。

ネットラーニングでは、コース制作のプラットフォームのインターフェイスを英語に切り替え始めています。結局、共通の言語は英語になるという判断です。おそらく、打ち合わせも英語になりはじめるのは、そうとおくない時期でしょう。

学習者の環境の問題もあります。現在、ネットラーニングでは、言語問題に対応する対策のひとつとして、受講生に対する管理者の言語の多様化をすすめています。たとえば、中国語の受講生にたいして、企業の担当者は、中国語でも日本語でも管理できるようになっています。

受講生がさまざまな言語で受講できるLMSだけではなく、管理画面も、受講生と同じ言語や、日本語、英語などでも管理できる機能を拡大しています。

今後も、eラーニングは、多様な言語にどのように対応していくのかという課題を解決するために、さまざまな機能を装備していくことになります。


eラーニングにおける創造的瞬間

2009-05-18 16:35:38 | eLearning
創造的瞬間ということばがあります。

森俊夫の定義によると、「時間の流れが一瞬止まり、ある空白の時間が流れた後、今まで自分を縛りつけていたフレームの力が弱まり、逆に内的な創造性や連想力が活性化される」その瞬間を意味しています。

あたらしいものが生み出されるとき、この創造的瞬間があります。きわめて大きな、質がかわる転機です。

eラーニングは、いま、この瞬間を通過しつつあります。

eラーニングについて考える前に、もう少し、創造的瞬間を考えてみましょう。

たとえば、自転車や動力船の登場にも、この瞬間がありました。自転車の場合、はじめは、馬のかわりでした。ハンドルの上には、馬の頭の模型があり、両足で蹴りながら走っていました。2つの車輪で走るという画期的な乗り物でありながら、馬のものまねがスタートです。自転車を決定的に変えたのは、ペダルの発明でした。自転車が自転車になった瞬間です。

おなじように、船も最初に動力化した時には、船べりに並んで漕いだ人たちのオールを水車のようにして、推進力としました。船の両側にオール付きの車をつけて、回転させたのです。オールでこぐという発想をすてて、スクリューが発明されたとき、船は強い推力をてにいれました。船が古い発想をたちきった一瞬です。

eラーニングも同じです。これまでの学習をこえて、自由に創造する一瞬がいまやってきました。

たとえば、eテストを考えてみましょう。ランダム出題や、まちがった問題だけ再出題したり、最初の数問の誤答分析から、以後はその人のレベルや弱点に合わせて出題していくなどは、ペーパーではけっしてできないことでした。

ネットラーニングが提供する「アセスメントラーニング」は、受講生が最初に簡単なテストを受けて、まだ不十分な学習項目だけの目次が表示されます。

これは、ほんの一例です。eラーニングは、いま、爆発的に進化し多様化しはじめていますが、これこそ、まったくあたらしい教育として創造的瞬間をこえつつある結果です。

教育から学習へ。集合教育から個人教育へ。教育における創造的発展です。

eラーニングは、まだ、その可能性の10%も実現していません。これから、まったく新しい発想による、あたらしい教育が発展し始めます。




きょうは風が強い八丈島

2009-05-17 20:12:23 | 島の生活
八丈島のわが家の庭から、風待ち(?)の漁船が見えます。

夜も、こうこうとライトをつけて停泊する大型漁船が、昨夜は10隻以上は見えていました。風が強い日に、島影で風待ちをするのでしょうか。

きょうは、ますます風が強まる予報だったので、1便で羽田に向かいました。やはり、2便、3便は欠航してしまいました。

累積生産規模とコストの研究

2009-05-12 11:08:09 | eLearning
「製品を事業として扱う経験の深さは、その製品を作り始めてからの累積の生産量で表せる」という仮説があります。

この仮説にもとづいて、自動車会社や半導体会社の累積生産量とそれらの製品の生産コストを入念にしらべた研究があります。その仮説と検証を通じて、経験(累積生産量)と生産コストの関係が明らかにされていきました。

そこで発見されたのは、「累積生産量が倍々となるごとに、一定率でコストが下がっていく」ということでした。その当時の半導体の会社の調査では、「生産累積量が倍々となるごとに、27%の定率でコストは低下していく」というものです。

これは、eラーニングでいえば、累積学習者の数が経験の深さをあらわしており、みあった生産コストの低下を実現しているということになるでしょう。

経験の深さは、サービス品質に強く反映しています。とくに、サービスの場合、経験による細かい改善の積み重ねが決定的に重要です。ショートカットで、サービス品質をアップする方法はありません。大切なのは、経験の深さです。

コストもそうです。累積生産規模が倍になれば、コストは27%下がるというのは半導体業界の分析結果ですが、eラーニング業界では、もっと劇的に差があるでしょう。ネットラーニングの価格競争力には、根拠があります。

2009年2月20日に、ネットラーニングの累積学習者は300万人を突破しました。それからほぼ40日後の3月末には、334万人に達しています。

石井淳蔵著『ビジネス・インサイトーー創造の知とは何か』(岩波新書、2009年4月21日)に上記の研究の紹介があります。






新しい工夫

2009-05-10 21:38:19 | eラーニング・ベンチャー企業
福澤諭吉の自伝を読みました。

福澤諭吉『福翁自伝』(PHP研究所、2009年5月7日、1200円+税)

「何事によらず新工夫をめぐらしてこれを実地におこなうことは、その事の大小を問わず、よほどの無鉄砲でなければできたことではない。」

しかし、
「さる代わりにそれが首尾よく参って、いつの間にか世間一般の風になれば、私のためにはあたかも心願成就で、こんな愉快なことはありません。」

ところで、全体の印象としては、なんともなまなましい自伝だ。江戸時代から明治にかけて生き抜いた人の生きざまかもしれない。

おなじ時代に、さまざまな生き方の選択があっただろう。

自らすすんで海外渡航の機会をつかみ、そこから、文化の核心にふれていく。「東洋の儒教主義と西洋の文明主義を比較してみるに、東洋になきものは、有形においては数理学と、無形においては独立心と、この二点である」今日の企業研修においても、この2点は、依然として最重要課題のひとつであろう。

諭吉は、20歳になるまでの4,5年間、白石という先生に漢書を習った。「経書を専らにして論語、孟子はもちろん、すべての経義の研究を努め、殊に先生が好きとみえて詩経に書経というものは本当に講義をしてもらってよく読みました。それから、蒙救、世説、左伝、戦国策、老子、荘子というものもよく講義を聞き、その先は私ひとりの勉強、歴史は史記をはじめ、前後漢書、晋書、五代史、元明史略というものを読み、殊に私は左伝が得意で、たいがいの書生は左伝十五巻のうち三、四巻でしまうのを、私は全部通読、およそ十一度読み返して、面白いところは暗記していた。」のです。

ふと、ここにあげられた本を私は読んでいないことに気がつく。もしかして、文化の根底にあるものを学んでいないのではないか?読むべきなのではないか?