ジャン・ジオノ作、フレデリック・バック絵『木を植えた男』(あすなろ書房、1992年11月15日)
絵本のような本です。社員に貸してもらって読みました。いい本なので、自分で読む人は、以下は読まないでください。
山奥にだれも住まない荒涼たる地域がありました。村も人影がなく、家も朽ちている。「はなしは1913年の昔にさかのぼる」
若者が「さらに歩きつづけること5時間あまり、水はどこにも見つからず、・・・」その荒野のなかで、1人の羊飼いに出会いました。
その男の家にとめてもらい、温かいスープもふるまわれた。
翌日、寡黙な男は、草もない丘に鉄棒で穴をあけ、昨夜おそくまで選んでいたどんぐりをたんねんに植えていた。「聞くと55歳だという」。妻も一人息子もうしない「思いたったのが、不毛の土地に命の息吹をよみがえらせること」
それから5年、戦争から帰った若者は、その地をふたたび訪れた。男はかわらず木を植えており、木々は森に育ちはじめ、かれていた小川にせせらぎがよみがえっていた。
若者はいう。「かれが、ときにむなしさを感じたこともあったことを、わたしは知らなかった。どんな成功のかげにも、逆境にうちかつ苦労があり、どんなはげしい情熱を傾けようと、勝利が確実になるまでは、ときに絶望とたたかわなくてはならぬことを知るべきだった。」
「ある年、・・・苗は全滅し、かれは絶望のふちに立たされた」
「このたぐいまれな不屈の精神を思うとき、それがまったくの孤独の中で鍛えられたのだということをけっして忘れてはならない。そう、生涯の終りにかけて、ほとんど言葉を失うほどの孤独の中で。」
「1946年6月・・・かれは87歳になっていた」
「いまはすっかりかわっていた。空気までかわっていた」木のさざめきと水の音。「道々のいたるところで、若い男女が語り合い、村の祭りに楽しみをおぼえた少年少女が笑いさざめきあっている」「ゆうに1万をこえる人たちの幸がもたらせられたことになる」
男の名前は、エルゼアール・ブフィエ。1947年、養老院でなくなった。
ところで、読後の感想としては、本当に男が絶望した時があったのだろうかと思う。実話であれば、かれは、きっと、絶望したことはないだろう。
絵本のような本です。社員に貸してもらって読みました。いい本なので、自分で読む人は、以下は読まないでください。
山奥にだれも住まない荒涼たる地域がありました。村も人影がなく、家も朽ちている。「はなしは1913年の昔にさかのぼる」
若者が「さらに歩きつづけること5時間あまり、水はどこにも見つからず、・・・」その荒野のなかで、1人の羊飼いに出会いました。
その男の家にとめてもらい、温かいスープもふるまわれた。
翌日、寡黙な男は、草もない丘に鉄棒で穴をあけ、昨夜おそくまで選んでいたどんぐりをたんねんに植えていた。「聞くと55歳だという」。妻も一人息子もうしない「思いたったのが、不毛の土地に命の息吹をよみがえらせること」
それから5年、戦争から帰った若者は、その地をふたたび訪れた。男はかわらず木を植えており、木々は森に育ちはじめ、かれていた小川にせせらぎがよみがえっていた。
若者はいう。「かれが、ときにむなしさを感じたこともあったことを、わたしは知らなかった。どんな成功のかげにも、逆境にうちかつ苦労があり、どんなはげしい情熱を傾けようと、勝利が確実になるまでは、ときに絶望とたたかわなくてはならぬことを知るべきだった。」
「ある年、・・・苗は全滅し、かれは絶望のふちに立たされた」
「このたぐいまれな不屈の精神を思うとき、それがまったくの孤独の中で鍛えられたのだということをけっして忘れてはならない。そう、生涯の終りにかけて、ほとんど言葉を失うほどの孤独の中で。」
「1946年6月・・・かれは87歳になっていた」
「いまはすっかりかわっていた。空気までかわっていた」木のさざめきと水の音。「道々のいたるところで、若い男女が語り合い、村の祭りに楽しみをおぼえた少年少女が笑いさざめきあっている」「ゆうに1万をこえる人たちの幸がもたらせられたことになる」
男の名前は、エルゼアール・ブフィエ。1947年、養老院でなくなった。
ところで、読後の感想としては、本当に男が絶望した時があったのだろうかと思う。実話であれば、かれは、きっと、絶望したことはないだろう。